倫理的に優れていて素晴らしいアイドル

近年、アイドルやアーティストが人権問題や社会課題に言及する場面が目立つようになった。日本のアイドルもまた、ジェンダー平等や人権に触れる発言をする機会が増えた。世界的に人気のあるKpopアーティストなどは、SNSなどに向けられる目線の数も桁違いだ。そんな有名人らがその影響力を用いて人権的な発信をする姿勢は責任感がある素晴らしいものであると思う。批判もあるであろう中で声を上げることはとても勇気ある行為だ。一般人より時間もない中で学び、発信する姿は尊敬に値するし、何も影響力のないわたしだが彼らのようにありたいと思う。

 

しかし一方で気をつけたいのは、私たちファン側が「アイドルに自らの倫理観を委ねすぎていないか」という点である。さらにいうと、例えばあるアイドルがジェンダー固定観念について問題提起をしたとする。それを素晴らしいと思う。その際の思いを因数分解すると、「ジェンダー固定観念は問題だ。それについて問題提起をしていて素晴らしい。」というものなのか、それとも、「このアイドルは倫理的に優れていて素晴らしい」なのか。つまり、問題意識への共感があって、そして問題提起という行為について素晴らしいとするのか、アイドル自体に“倫理的”の称号を付与するのか。そこには違いがあるのではないかと思う。

アイドルが人権や社会に関して発言をすることは素晴らしい。そのひとつひとつの言動を真摯に受け止め、評価し、声をあげて讃えたいと思う。

しかしその一方で、「倫理観を推す」となると、そこまでアイドルに委ね、消費して良いのだったっけ?という疑問が首をもたげる。彼らは万能の聖人ではなく、矛盾を抱えながら生きるひとりの人間にすぎない。長時間労働により、普通の人より勉強のためとれる時間も少ないだろう。我々一般人は過ちを犯した際に、やべえ間違えたと気軽にツイ消しできるが、アイドルとなるとそうはいかない。

「倫理的」という評価はきわめて脆い。人間である以上、矛盾や過ちを免れることはできない。時代の雰囲気や言説環境は常に変化し、3年前には問題視されなかったことが、現在では炎上の火種となることもある。

こうした移ろいの中で、アイドルに「倫理的に優れている」というレッテルを貼ることが、アイドルにとって過剰な期待、時には重荷になってしまうのではないか、ということをわたしは恐れている。過度に膨らんだ期待感が、少しの失言や矛盾によって「期待を裏切った」として炎上に直結してしまうことを恐れている。

もちろん、言うまでもなく、それでアイドルの人権的にモラル的に間違った言動が不問にされるわけでは全くない。アイドルが人権的にモラル的に間違った言動をした際に、その言動がきちんと批判されたほうがいいとはもちろん思う。

 

ここで思うのが「このアイドルは倫理的に優れていて素晴らしい」という消費の仕方は、彼らの言動を無条件に正当化してしまうトキシックなファンダムの態度と紙一重になりうるのでないか、ということだ。言動への共感や問題意識の共有より先に、「倫理的かどうか」という価値判断基準が先行してしまうこと。先述したように、「倫理」という評価は背景や文脈、時代によってうつろいやすい。にも関わらず、誰かに「倫理的に優れている」というレッテルを貼ることは、倫理にあたかも一つの正解があるかのように見做し、それをアイドルに付与するということでもある。自分自身の倫理的な判断をアイドルに預ける行為、それは倫理的思考を停止させることであり、同時にアイドルを倫理的に過剰規範化することでもある。ファンは批判的思考を放棄し、アイドルの言動を無条件に正当化してしまう。

そしてアイドルが人権的、モラル的に間違った言動によって炎上したとき。一部のファンはアイドルの言動を無条件に正当化し、擁護する。その言動への批判を「アンチ」と読み替え、誹謗中傷だと主張する。「推しを守ること」が倫理判断よりも優先されてしまう。そして「批判するファン」はしばしば「裏切り者」とみなさる。ファンダムにおける同調圧力は強く、倫理的議論すら「推しを守るか否か」という二元論に回収されてしまう。さらに、SNSのフィルターバブルが議論の複雑性を削ぎ落とし、単純な賛否の構図へと押し込める。結果として、「アイドルに善悪の基準を預ける」傾向はますます強化される。

結局のところ、理想的なファンのあり方に正解はない。ただ、ひとつ確かなのは、アイドルに倫理の基準を全面的に預けてしまうことが危ういという事実だ。アイドルに限らず、ありとあらゆる人間関係に適応できることだろう。善悪の判断は本来、自らが引き受けるべきものであり、アイドルの言動はその刺激や契機にすぎない。数年前と今とで論調や時代の空気は大きく変わっているし、これからも変わり続けるだろう。その揺らぎの中で、ファンもまた模索を続けていくしかない。アイドルを愛することと、自立した責任ある人間として倫理的な判断をすること。アイドルの言動と、アイドル自身を分けること。倫理的なものがあるとすればそれはその人の言動で、そのひと自身に倫理的であるというレッテルを貼ることを避けること。そしてなにか批判される事案が生じたとしても、それはその言動に向けられるべきであるということ。それを徹底するということなのだろうと、今のところは思っている。

 

 

選んだ色をまとうこと——Aぇ! group「Chameleon」論

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Aぇ! groupの3rdシングル「Chameleon」。この楽曲およびMVには、SNS社会における承認の問題や、大衆の欲望、そしてアイドルをめぐる消費や主体性といった問題そのものを問い直す、鋭い批評性が込められている、という見方が可能だと思う。

MVに視覚的に仕掛けられたギミックについては、すでにネット上にテクニカルな考察が数多くある。本稿ではあくまで、歌詞とMVから読み取れる現代社会への批評性、という内容を軸に展開していく。

 

カメレオンが映し出す現代社会の病理

 MVの舞台は、ある音楽番組のスタジオと舞台裏。番組のMCである「カメレオン人間」は、ゲストであるAぇ! groupをもてなすことには無関心であり、もっぱら自分が撮ったAぇ! groupとの自撮りをSNSに投稿し、その評価に一喜一憂する。彼にとって重要なのは、アイドルの表現ではない。それがどれほど「バズるか」である。

カメレオン人間は、Aぇ! groupの「人気」や「知名度」という記号を「借用」し、それを自己の承認獲得に利用する。ここで彼の行動は「衒示的消費」の典型と見なせるだろう。すなわち、彼は自らが消費した対象(=Aぇ! groupと一緒にいるという経験)を社会的ステータスとして誇示し、そのイメージを媒介として社会的評価の回路に参入しようとするのだ。SNSが発展した現在において、誰もが発信者になれる一方で、発信は常に「他者にどう見られるか」に規定される。カメレオン人間が体現するのは、まさにその「見られること」への執着と依存である。SNSで“映え”を競い、人気者に便乗し、他人の光を借りて自己の存在証明を果たそうとする欲望の化身としてのカメレオン。ここでのカメレオンが映し出すのは、匿名化された「私たち」の存在とも捉えることも可能だろう。かつて、テレビという一方向的メディアの中で、アイドルは視聴者に「見られる対象」という側面が強かった。しかしSNSの台頭により、アイドルという存在の「衒示的消費物」的側面は日々強くなっている。「誰を」「どれくらい」推しているかを顕示することで承認欲求を満たす消費者。あるいはもっとシンプルに、推しを「上げる」言動には群がって称賛の声を浴びせ、推しを「下げる」言動には群がって心ゆくまで叩きのめし、カメレオンを指先で追い詰める無責任な大衆の存在か。

カメレオンという動物は、体の色を周囲の環境に応じて変化させる生き物である。彼は、自分自身の「色」を持たない。このMVにおけるカメレオンは、大衆の欲望の色や借り物の威光に応じて色を変える存在であり、常に外部の評価に自我を明け渡している。だが、その評価は真に彼自身に向けられたものではなく、「借り物の価値」によって支えられた脆弱な構築物である。だからこそAぇと撮った写真がSNS上で高評価を得ているあいだカメレオンの身体は色鮮やかに輝くが、評価が落ちればたちまち灰色に変わる。これは、SNSという承認経済の檻の中で、自我が擦り切れていく現代人の寓話であると同時に、アイドルという存在の周囲に群がる“視線”の暴力性そのものを可視化している。

 

「選んだ色をまとう」という主体性

MVの中でAぇ! groupは、スタジオ(表)と楽屋(裏)を何度も行き来する。この運動は、アイドルという存在が常に虚構と現実、演技と素のあいだを往還し続けることをメタ的に表している。スタジオ内でAぇが多くのカメラに取り囲まれている様子は、まさにアイドルというものは他者の欲望が投影される対象であり、理想や偶像として「見られる」存在であるということを示しているということが言えるだろう。しかし「Chameleon」では、その構造が逆転する。彼らは「見られる存在」であることに甘んじるのではなく、「見せる存在」としての主体性を取り戻す。

特筆すべきは、歌詞の随所に現れる「脱ぎ捨て」「さらけ出し」「色を選ぶ」という言葉の数々である。

〈まっさら剥がれ落ちて/本当の感情さらけ出してちょうだい〉
〈肩書きも無意味なように/衝動抑えつけぬように〉
〈選んだ色をまとえ〉

これらはすべて、他者の視線や評価に規定された自己像からの脱却を意味する。他人が期待する「キャラクター」ではなく、自らが選び取る「色」をまとうということ。MVの終盤、灰色に変色してダウンするカメレオンとは対照的に、Aぇ! groupは鮮やかな彩度を放つ。つまり、見る者に従属する「見られる存在」と、自らのヴィジョンを提示する「見せる存在」の対比である。つまりこの曲の「Chameleon」とは、大衆の欲望に合わせて色を変える受動的な存在ではなく、自らの色を選び直し、他者の評価によってではなく、自分の欲望によって自己を定義する能動的な主体への変身を意味している。

 

「色眼鏡」を受け入れながらも主体性を失わないということ

では単純にこの曲は、

他者の欲望の写し鏡となり自分自身の「色」を持たないカメレオン

 ↔︎ 色とりどりの服を纏い個性的に輝くアイドルAぇ! group

という対比になっているかというとそうではなく、そこからさらに一歩進んだところにまで言及していると考える。

鍵となるのはやはり〈選んだ色をまとえ〉という歌詞だろうか。

選んだ色になれ、つまり素の自分を個性豊かに彩れ、というメッセージではない。「まとう」という言葉には、素の自分の上に衣服というベールを一枚被せるというイメージが付随する。衣服は、人間が社会に接続するために必要なものだ。社会においては私がどのような人か、纏う衣服で判断される。〈選んだ色をまとえ〉という歌詞からは、自分を眼差す社会、そして色によってわたくしがどのような人間か規定する大衆の色眼鏡を前提にしながらも、それを受け入れて逆に利用しろというメッセージ性すら感じられる。

つまりこれは、単に「他者の視点」からの解放を歌った歌ではない。むしろ、この現代社会において他者からの視線というものは避け難いものとして付きまとう。その中でただ眼差される客体でいないためには、自分で色を「選び取る」こと。他者からどう眼差されるか、自分の手によってコントロールすること。これはある意味で、アイドルを取り巻く大衆の欲望や眼差しの存在をメタ的に認めつつ、その主体性は自分たちの手の中にあるということを宣言する歌である、といえるのではないだろうか。このような挑発的な歌を3rdシングルに持ってくるAぇ! groupの心意気を私は愛している。

 

 

ところで、「大衆の欲望・視線に自覚的でありながら、それを心得た上で主体的にアイドルをやる」というのは、この曲だけではなく、Aぇの活動全体に通底している哲学なのではないかと私は考えている。

そういう記事を書いたことがあるので、よければご一読ください。

 

talkinboutmygeneration.hatenablog.com

 

 

Aぇ! group「AKAN」論

youtu.be

 

「AKAN」は、2025年2月18日にリリースされたAぇ! groupの1stアルバム『D.N.A』に収録された一曲である。Ayumu Imazu氏が手がけたこのナンバーは、心地よく刻まれるビートと、関西弁を随所に織り込んだリリックによって、耳にも体にも馴染む仕上がりとなっている。

 

アルバムのリリース前にレコーディングMVが公開されるやいなや私はこの曲の虜となり、今ではAぇの楽曲の中で一番好きなものとなった。まずもって曲がいい。コレオグラフィーもかっこいいし、メンバーの歌声(特に自担の草間リチャード敬太さんの歌い出しがこれでもかというくらい楽曲の雰囲気を象徴しており、最高)が素晴らしい。ライブでの演出も素晴らしかった。しかしなによりも、この曲の歌詞が持つ魅力が凄まじい。語ったらキリがない。

その中でも本記事では、

・Aぇ!  groupのこれまでを知るファンにとってエモく響くアイドルソング

・それでありながら、Aぇを知らない人にとっても普遍的に響く、時代を象徴する曲としての強度がある

・「関西」曲の系譜に連なるものでありながら、新しい視点を提示しているものである

・上京モノでありながら、故郷への眼差しに愛情を感じる曲である

上記3つの視点より「AKAN」論を展開していこうと思う。



Aぇ! groupの足跡とダブるエモい歌詞

 Aぇ! groupは、いわゆる“遅咲き”のグループである。メンバーの過半数が20代後半に差し掛かってからのデビュー。もはや「若さ」「フレッシュ」といった売り文句では押し切れない、大人世代だ。そのぶん、彼らの表現は実力と経験に裏打ちされた“地に足の着いたリアリズム”を湛えている。「AKAN」は、その象徴的な一曲だ。デビューアルバムに収録される曲でありながら、夢と希望に彩られた未来像ではなく、社会の中でもがく等身大の20代後半の身体が感じる痛み、迷い、つまづき、焦りがリアルに綴られている。

Aぇのファンであるならば、この歌詞を一読すれば、彼らがJr.時代から辿ってきた足跡が想起できるだろう。生き馬の目を抜くJr.の世界、その中でもさらにチャンスを掴むことが難しい関西Jr.という環境の中で、メンバーそれぞれが「選ばれなかった」経験を持つ5人が歌うからこそ、「AKAN」の1番の歌詞には倦怠感や焦燥感、切実さが宿る。Aぇのメンバーは歌やダンス、お笑い、楽器など一芸に秀でた実力者が揃っていることは言うまでもないが、非情にもJr.の世界は実力があったからといって確実にチャンスが巡ってくるような世界ではない。先輩が、同期が、後輩が、次々とグループを組んで花道を進む。もしくは夢に区切りをつけてステージを去る。その中で、多分〈 このままじゃあかんわ どうしようもないわ/突っ立って待っててもあかんわ そんなんじゃ何も変わらんわ〉と繰り返し思った日々があったのでは…そう思わせる歌詞だ。

 

さらに、2番の歌詞はデビュー後関西から上京して、都心の荒波の中で流されまいともがく彼らの姿が重なる。華やかな出発というよりも、長く踏ん張ってきた者たちによる、遅れてきた第一歩。〈一人部屋でFacing 着々こなしていくChecklist /周りと比べててもあかんわ〉上京し新たな環境に身を置いても、引き続きそこには「このままじゃあかん」という焦燥感がある。

 

さて、Jr.担の中では、「(CD)デビュー」というものがある種神話化されている。(これはそもそもJr.の不安定な契約形態であったり、Jr.グループの楽曲やパフォーマンスがアーカイブ化されなかったり、「辞めジュ」に対する事務所/ファンからの圧力という、「Jr.の労働問題」が密接に関わっているモノであると思うが)Jr.担は祈るように自担グループのデビューを祈り、そのために資金を投じる。デビューさえしてくれたら、自担の活動は安泰となる。自担をデビューまで押し上げることができたらファンを降りる、という人も一定程度存在するほどだ。

 

しかし、この楽曲は〈行ったり来たり繰り返し スタートラインに振り戻し〉というフレーズを繰り返す。デビュー後初のアルバムの曲なのだから、やっと掴んだこの栄光を離しはしない的なことを言っても良いと思うのだが、AKANは違うのである。地元で燻っていたあの頃も、上京してもがく今も、キャリアや年齢を重ねても何度も何度も〈スタートラインに振り戻し〉、なにやってんねん俺と思いながら〈このままじゃあかん〉と足を踏ん張る。デビュー神話崩壊後のリアリティがそこにある。

 

そしてそんな彼らの人生に寄り添うのが、551の香り、流れる血、ご褒美の飴ちゃんといった関西の記憶である。ここに故郷を象徴するものが入れ込まれていることで、単なる上京モノでは終わらないという深みもあるのが本当に素晴らしいと思うのだが、それについては改めて後述する。

 

令和の時代に響く「今日を生きたことを誉めなあかんわ」

 アイドル史に残る名曲、SMAP「がんばりましょう」がリリースされたのは1994年。バブルが崩壊し、いわゆる「失われた10年」が幕を開けたこの時代、社会からはかつての楽観と無根拠な希望がすっかり姿を消し、「努力すれば報われる」という前提が揺らぎはじめていた。そんな時代の空気のなかで、この歌は聴き手に肩の力を抜きつつ「とりあえずがんばりましょう」と語りかける。「大きな物語」が消え、努力も根性も空虚なスローガンになりつつある時代に、「ま、そんなもんだよね」と受け流しながら、無理せず時代の空気に自分を合わせていく。それを肯定し、寄り添ってくれる、まさに平成という時代を象徴する1曲だったのではないだろうか。

国民的アイドルの側から広くBoys&Girlsに〈がんばりましょう/幸せになりましょう〉と呼びかける「がんばりましょう」に対し、「AKAN」は呼びかけない。そこにあるのはより不確実で分断された令和の時代を生きる若者に向けられた“等身大の自己対話”だ。「頑張ること」それ自体がもはや明確な価値として立ち上がってこない時代における、内省の連なりである。

歌詞を見てみると、〈満たされないFeeling〉〈あの頃の自分〉〈言い聞かせて 〉〈 一人部屋でFacing 着々こなしていくChecklist 周りと比べててもあかんわ〉 と、徹頭徹尾内省的なフレーズが繰り返されているのがわかる。「あなた」「きみ」「あいつら」などは登場しない。この語り手が向き合っているのは、他人ではなく自分自身の生活であり、自己肯定であり、生き抜くことそのものだ。「AKAN」が特徴的なのは、ここで提示される課題があくまで個人的で、日常的で、そして普遍的であることだ。

 

「AKAN」の歌詞が進むにつれ、「〜しててもあかんわ」という否定の文型が繰り返される。〈下ばっか向いててもあかんわ〉〈突っ立って待っててもあかんわ〉。この“あかんわ”のラッシュは、自己を叱咤激励するようにも見える。一見すると従来の自分を鼓舞するような応援ソングの系譜に当てはまるようでもある。しかし、注目すべきはその後に置かれたフレーズである。

 

〈たまに立ち止まることも忘れたらあかんわ

〈たまにご褒美の飴も忘れたらあかんわ〉

〈心だけは大事にせなあかんわ〉

 

そして極め付けは〈今日を生きたことを褒めなあかんわ〉──「夢を叶えた」ことではなく、「今日を生きた」ことを、「誰か」ではなく「自分自身」が褒めるという態度。

この言葉が登場する頃には、この曲はすでに自己啓発の歌ではなく、自己受容の歌になっている。むしろ、セルフケアやメンタルヘルスといった概念に親和的な、“自己肯定の倫理”が流れている。「正解」を求めて焦燥し消耗するのではなく、日々をちゃんと生き延びること、ちゃんと休むこと、そしてそんな自分を「褒める」こと。その意味で「AKAN」は、セルフケア的価値観の浸透を前提にした消極的応援歌であり、極めて令和的である、と言えるのではないだろうか。

 令和とは、平成よりさらに社会構造や経済の先行きに希望を持ちにくい時代だ。終身雇用は崩壊し、SNSは比較と消耗の温床となり、夢や恋や成功がどこか“虚像”として消費される。そんな時代において、Aぇ! groupの「AKAN」が体現するのは、「頑張れ」の先にある“自己メンテナンス”と“感情の承認”である。〈たまに立ち止まることも忘れたらあかんわ〉〈心だけは大事にせなあかんわ〉というフレーズは、「闘う」よりも「守る」ことを優先する。つまり、〈闘志〉から〈ケア〉へ。消耗するよりも、生き延びること、折れないこと、諦めることを諦めないこと。そういった“しぶとさ”こそが、今を生きる私たちにとってのレジリエンスであり、令和にデビューしたアイドルがこの曲を歌うことは希望であると言えるだろう。



オリエンタリズムを脱した等身大の関西

 この曲は、タイトルで分かる通り、関西グループの伝統である「関西」曲の系譜を引き継ぐものとなっている。従来の「関西」曲の多くは関西を象徴する固有名詞や記号をふんだんに織り込むのがセオリーであったのだが、「AKAN」におけるその「関西」要素は実にさりげない。しかしながら、随所に散りばめられた関西弁は実に等身大のリアルな語り口のものであり、〈551聞くたび お腹が鳴る現象〉〈ご褒美の飴〉といった描写には、関西の空気のなかに長く身を置いた者でなければ掬い取れない、生の生活感が滲んでいる。東京からの視線を意識した、言わばオリエンタリズムとしての楽曲ではなく、関西を内側から語ろうとする楽曲だ。自分自身の中にある「ローカル」を外部のまなざしから引き剥がし、語る主体のものとして「関西」を再構成する営為。Aぇ! groupが、このデビュー作においてそれをやってのけた意味は大きい。

 

 2025年、大阪・関西万博の真っ只中。──記号化された「関西らしさ」が、政治と資本の道具として利用されている。そんな時代に、この曲の提示する「関西」のささやかさ、リアルさは、希望として映る。それは、行政や資本が期待する「魅力的な関西」「観光可能な関西」ではなく、そこに住まい、生き、悩む人々の「心だけは大事にせなあかんわ」という実感に根ざした関西だからだ。

 

ルーツに向けられた眼差しのあたたかさ

 

この曲は、地方の人間が東京に出てさまざまな壁にぶつかりながら人生を進めていく、という「上京物語」であるとも言える。上京物語モノでは、「東京」と「故郷」が2項対立的に語られるのがセオリーだ。たとえば、

夢を叶えるために向かう場所「東京」↔︎夢を叶えるため捨てる「故郷」

成長・葛藤・挫折などを味わう場所「東京」↔︎停滞・ぬるま湯・安心な「故郷」

冷酷で残忍で人情のない「東京」↔︎人情深く愛情に満ちた温かい「故郷」

といった具合である。

「AKAN」の2番の歌い出しは、そうした「上京物語」の定型を思わせる。「Checklist」「一人部屋」「周りと比べて」といったフレーズ群は、個が社会に適合しようとする過程で直面する孤独と焦燥を生々しく描き出している。

 そんな中差し込まれる「関西」の要素は、自分を見失いそうな都会生活において、ひっそりと張っている根のようなものとして描かれる。「遺伝子」「血」は都会の荒波のなかでも洗い流されることのない、絶対のものである。「放つ言葉」であるところの喋り方、イントネーション、言い回しの一つひとつが、「自分らしさ」を形成する。〈551聞くたび お腹が鳴る現象〉はもはや植え付けられた生理現象なのだからどうしようもない。故郷の遺伝子は、自分の体にどうしようもないくらいはっきりと根付いてしまっている。しばしば、「故郷(方言)を捨てること」「過去の自分を捨てて新しい自分になること」といった変化の痛みと隣り合わせの上京物語だが、ここではそうした変化の痛みは描かれていない。〈どれだけ待っても 変わりなさそうで がっかりするわ〉というフレーズは、諦念ではなく、どこか安堵のように響く。自分の「ルーツ」はこの大都会においてはなんとなくダサいし恥ずい、でも故郷と自分とは切っても切り離せない、そりゃあしゃあないかとため息をつきながら、そのルーツと共にやっていくのだという悟りがそこにあるようだ。

そして、〈圧巻されただけじゃまだ終われないでしょ〉というフレーズの力強さに、私も同じ上京組として感じ入ってしまう(あかんと圧巻の言葉遊びが圧巻)。地方の人間は上京したとき、大都市の果てしなさ、流れの速さ、上を見上げりゃきりがないそのピラミッドの高さみたいなものに、まず圧巻されて立ち尽くす。曲の視点はあくまでも、立ち尽くさせる都会のデカさにではなく、立ち尽くしてしまう自分の足に向いているのがいい。徹頭徹尾「自分」の歌なのだ、これは。そしてその立ち尽くす足にムチ打って、そんなんじゃあかんと言い聞かせて、毎日をやっていく。ああ、この歌の持つリアリティ、上京して懸命に働く20代後半社会人全員に聴いてほしいものだ。

そして、都会で自分にムチ打って働く主人公を癒すのは、生まれ育った地に根づくご褒美の「飴ちゃん」である。結局故郷が自分を支えているというところに帰着するのが、とても良い。

 

 

以上、「AKAN」論を展開してきた。噛めば噛むほど良さが染み渡る名曲である。

少しでも興味を持った方は、本当にいい曲なのでお願いだから聞いてみてほしい。

Ayumu Imazu様、本当に素晴らしい楽曲をありがとうございます。

youtu.be

演じる主体たちの肖像 ── Aぇ! group デビュー1周年に際して

 

資本主義的な消費社会の中にあって、アイドルとはもっとも生鮮的に消費される商品だ。

「アイドル大戦国(飽和)時代」の中で日々たくさんのアイドルグループが生まれては終わっていく。その流動性の高さは資本主義社会の残酷さを我々に突きつける。

パフォーマンスに要求されるクオリティはますます高くなり、今ではどこの事務所も練習生制度などを採用し早いうちからアイドルを育成する。そして彼・彼女らの持つ、若さ、無垢、「まだ何者でもないこと」による可能性と、希望(CDデビュー)と絶望(突然の解体)表裏一体となったスリル感からなる物語に我々は熱狂する。しかしそれは、早いうちから少年少女の人生の選択肢を制限してしまうことでもあり、人一人の人生をかけた博打を楽しむようでもあり、アイドル引退後のセカンドキャリアの形成の難しさにも繋がっている。

2000年代前半、旧ジャニーズが敷いていたメディア規制を知る我々にとって、今のアイドルの無料で楽しめる供給のなんと多いことか!そしてそれは、アイドルの労働時間が長期化し、本来プライベートな部分であったはずのものまで商品化されていることの表れだ。そしていつしか消費者の需要を供給が上回り始め、業界全体が薄利多売のスパイラルに陥っている。もっと数字を回さなければ、儲からない。

ああいったい、この産業で、この業界で、アイドルとしてデビューすることとは果たして希望なのか?という絶望が漂い始めた2024年5月15日、Aぇ! groupはCDデビューを果たした。

 

そして私は身勝手な消費者ながら、彼らを取り巻くシステムのあり方に絶望する一方で、そのデビューを心底喜んでもいる。

そしてさらに身勝手な消費者である私は、Aぇ! groupのデビューという現象が、一種の希望であったとすら思いたいのである。

 

 

 

Aぇ! groupのデビューがもたらした衝撃のひとつは、そのタイミングにある。佐野晶哉を除くメンバーのジュニア歴は10年以上、過半数がすでに20代後半に差しかかるという年齢構成は、アイドルがしばしば持つ「若さ」という商品価値を根幹から問い直す。

先輩グループのSnow ManSixTONESTravis Japanでも言われたベテランデビュー化の流れは、Aぇ! groupのデビューにより極大化した。最年長・末澤誠也は、デビュー後半年も経たずに30歳となった。

Aぇがさらに特殊なのは、すでにJr.グループとして結成されたタイミングから、無邪気でフレッシュな新人グループとして売り出すには大人すぎたことにある。成長過程の若者であれば不器用にぶつかって、傷ついて、雨降って地固まるというようなこともあったかと思うが、Aぇのメンバーは後先考えずにぶつかり合うには少々大人すぎた。納得いかないところは話し合い、折り合えないところを無理に変えようとせず、妥協点を探る。しばしば、幼い頃から寝食を共にし、家族以上に時間を過ごすアイドルグループのメンバー同士の絆を家族に喩え、その近い距離感を尊ぶ文化が存在する。それに対しAぇのそれはどちらかというと、非常に絆は強固ながら、ビジネスパートナーという見方が近いように思う。天真爛漫なグループが脚光を浴びるジュニアの中でその雰囲気が吉にも凶にもでることがあったように思うが、ずっとそれを貫いていた。

そしてそれは、デビュー発表のやり方にも象徴されていたように思う。本人たちもファンと同時にサプライズでデビューを知らされる、という手法をとるグループもいる中で、自分たちの口から、自分たちのタイミングでデビューを報告したAぇ。涙はそこそこに、笑いと喜びに満ちた空間を自分たちで演出していたデビュー発表だった。

そこに立つのはキャリアを積み重ねた大人たちであり、選ばれなかった苦悩、突然の別れを乗り越えながらも、諦めずステージに立つことを選んだ者たちだった。

そう、彼らは自ら言葉を紡ぎ、演出する。彼らのクリエイティビティが及ぶ範囲は作詞、作曲、衣装、演出、演奏、脚本…と非常に幅広い。

主体性を持つ大人たちが自分たちで選び取り、作り出すグループ。それが私がジュニア時代から一貫してAぇに持つ印象である。

 

 

さらに言えばAぇ! groupとは、アイドルとはパッケージングされた商品であり、そのパッケージは演じることで作られるというある種メタ的な視点、、、を持っているグループであるのではないかと思う。

メンバーそれぞれが「見られる自分」「自分に向けられるファンの視線/欲望」に自覚的でありながら、それに応え/抗い/ときには再提示しながら、主体的にそれぞれ商品としてのアイドルを演じている、のではないかなと。

 

正門良規は、いわゆる“リア恋”という属性を担いながら、その幻想を過度に煽ることはしない。プライベートを巧みに管理し、見る者に想像の余地を残す絶妙な距離感。正門良規は「見られる客体」でありながら「演じる主体」であるというところに意識的なのではないか、とすら思う。

そしてまた末澤誠也も、自己が志向するクールなアイドル像と、ファンから求められる「かわいい系」の像とのあいだで、自己の見せ方を戦略的に、クレバーに選択する。それは演者が自身の役をメタ的に理解し、必要に応じて最適な衣装を着替えるようなものだ。そこにあるのはまた、自分の見せ方を主体的に選択する、「演じる主体」としての自我ではないか。

島健の下ネタやダーティな振る舞いも辞さない年齢相応の気取らないキャラクターは、従来の「アイドル」像からは距離がある。その一方で「Aぇ!という物語」の主要な語り手・創造主であり、熱く、泥臭く、感情的な語りでファンをその物語に巻き込んでいく。そしてもう一人Aぇ! groupにおける最重要クリエイターといえば佐野晶哉だ。作詞作曲の腕前はかなりのもので、すでにコンサートに欠かせない、Aぇの音楽性の格となる名曲を何曲も生み出している。その妥協のなさに、彼の目指しているレベルが単なる特技披露ではないことを思い知らされる。つくづくこじまさやとは、Aぇという舞台における脚本家と音効なのだと感じる。自分自身の切り売りではなく、自分の手で作り出したものを商品化する。まさにグループのあり方を体現しているようだ。

そして草間リチャード敬太は、自らのアフリカ系アメリカ人のルーツについて、ジャニーズ――そして日本のアイドル文化全体――において、いかに希少であるかをしばしば語ってきた。彼はその差異に、自らに向けられる視線に自覚的であった。その中で経験してきた葛藤は計り知れない。それでもその中で、どう「目立つ」か考え、実践してきたアイドルである。そして「目立つ」からと目を奪われた者がそのハイクオリティな歌とダンスに夢中になっていく、という流れが確立された。社会の視線にさらされながらも、その視線を逆手に取り、新たな意味を生成しようとするパフォーマティブな行為であると言えるだろう。さらに、自らが活動することで同じルーツを持つ者の「ロールモデル」となれたら、と言う。演じること、演じることの意味、それに自覚的なアイドルであると言えるだろう。

 

そういったメタな視線を持ち合わせている(ように感じる)一方で、シニシズムには傾倒しない。

彼らの提示するアイドル像はとても熱く、野心的で、愛と笑いと情熱を大事にしている。「国立競技場に立つ」という大きな夢すら掲げる。メンバー同士の絆、ファンとの繋がりを重んじる。伝統に対するリスペクトを持ち、それを継承しつつ新たな物語を生み出すことを掲げている。その物語の広がりはとてもワクワクするもので、私含む多くの観客が熱中し、感動し、そしてその続きを応援したいと思っている。

彼らのその情熱は表向きに作り上げられたものなのだろうか?嫌、違うと思う(さりとて彼らは本心からそうであると断言する気はない。なぜって、我々は他者の本心など知る由もないからである。)

そう信じたくなる説得力が、彼らの表現にはある。

確かなアイドル像が提示されているのだ。

 

 

2024年5月15日発売のAぇ! groupの1枚目のシングル「《A》 BEGINNING」には、以下のようなフレーズが繰り返される。

youtu.be

 

「新しい時代へ It's the beginning」

「Heralding a new era(新しい時代の訪れを告げる)」

「新時代への挑戦者」

 

 

Aぇのデビューとは、現代のアイドル産業において、いったいどのような新しさを提示したのか?

プライベートとパブリックの境界の曖昧化、無尽蔵なコンテンツ供給、過剰な自己開示、加熱するファンダム文化――そうした消費社会の狂騒のなかで、Aぇの在り方は、少し異質で、流れに抗っているように思える。

それは、アイドルとして「自分たちが商品であること」を強く自覚しているがゆえに、何を商品化し、何を残すか、その境界の設定を自分たちでうまくしていることの表れではないのか…。

 

「「演じる主体」として自己呈示を行う大人たちが、アイドルとしてデビューしたこと」

 

Aぇのデビューとはそういうことだったではないかと、ある種希望を託すように、そう感じている。

 

 

 

 

 

デビュー2周年目に突入した。引き続き、彼らの生きる物語は彼ら自身の手で描かれる。それぞれの選び取ったキャラクターは、舞台の上で生き生きと輝く。さながらエチュードのようにリアルタイムで生み出されるストーリーに、我々観客の心は踊る。これはそういう商品で、それに対価を払う。夢がない話?そうじゃない。彼らが生み出したもの、我々から生み出される感情、それを共に分かち合っていること、それは紛れも無い本物であり、それが全てだ。

 

 

youtu.be

 

2022/1/11

 

 

 

 

2022年1月11日、本日は草間リチャード敬太くんの26歳の誕生日です!めでたい!

 

普段はただただ言語化できない己の欲望に従ってオタクをしている私ではありますが、あえてそのドデカい「好き」の感情を、ひとつひとつ言語化して並べ立ててニヤつきたい日もある。とくにこんなめでたい日は。

というわけで、一粒万倍日に天赦日が重なる超ラッキーデイにバースデーボーイなスーパーラッキー自担の好きなところ100個くらい正座してちゃんと言えるかどうか検証してみようと思います。(引用で年齢がばれるね)

 


1.ダンス。ステージのどこにいたって目が釘付けになってしまう。音に合わせて踊るというより、音を可視化しているみたいだなと思う。

 

2.自分のダンスに自信を持っているところ。

 

3.その自信は圧倒的な練習量とたゆまぬ努力によって裏打ちされているというところ。

 

4.ダンスに関しては後輩であってもメンバーであっても容赦も手加減もしないというところ。

 

5.問題点の指摘と同じくらい、成長したところの評価も惜しみなく行うところ。そうした先輩としての在り様。

 

6.上手い人のダンスを見るときに心底楽しそうな表情をするところ。

 

7.少しハスキーな、少し鼻にかかった、でもクセのない、優しくて深みのある力強い歌声。

 

8.ドスの利いたガナリ声。好青年ひしめくジャニーズJr.において貴重な治安の悪さ。

 

9.歌声の安定感、リチャくんが歌い出しの曲の安心感。

 

10.ラップ。とりわけ、『Can't Stop』2番のクールでセクシーなラップがめちゃくちゃ好きなので皆さん聴いてください。

 

11.そうしたスキル全て圧倒的な練習量とたゆまぬ努力によって手にしたというところ。

 

12.自ら磨き上げた武器によってステージの上で誰よりも目立つ生粋のエンターティナーなところ。

 

13.売れたい、仕事が欲しいと折に触れて口に出すところ。その仕事への貪欲さ、アイドルとしてのありよう、大好き。

 

14.目立って褒められたいという思いからジャニーズに入ろうと決意したところ。そのような人が表舞台で輝くべきと思うので。

 

15.ジャニーズには自分で履歴書を送ったところ。自分で履歴書を送った派のジャニーズのこと、みんな好きでしょう。

 

16.とくにレギュラー番組以外のテレビ番組に出演する際の爪痕の残し方。振られたふりを確実に決める様。強打者のロングヒットを見ているようで気持ちがいい。

 

17.テロップ職人なところ。何を隠そう私がリチャくんを気になったきっかけが、男塾での強烈なテロップ(自分たちが過酷なキャンプロケをしているのに対しなにわ男子はかわいいワンちゃんとロケをしていると知った際の)「家でやったらええ」だったので。

 

18.とくにレギュラー番組以外のテレビ番組に出演する際のギアが数段入る瞬間。

 

19.美しく精悍な顔立ち。顔が好き。心底かっこいいと思う。ずっと見ていたい。

 

20.まるで狩人のようなまなざしで鋭い眼光を帯びることもあれば、可愛らしくきゅるきゅるときらめいたりもする、表情豊かなチャームポイントの瞳。

 

21.切れ込みの深い目頭と垂れている目尻の絶妙なバランス。


22.ダイヤモンドよりも煌めいている瞳の水分量。

23.美しい後頭部の曲線。ヘアスタイルによって露わになる造形美。


24.本人も気に入っているらしいワイルドなヒゲ。そして髭が似合うという強み。


25.ヒゲJr.という分野に果敢に挑もうとした精神。


26.自分に似合っているものは何か、「ジャニーズ(Jr.)らしさ」の枠にとらわれずに模索するところ。

 

27.おしゃれなところ。値段やブランド、流行に頼らず自分らしさを演出できる人、服に着られるのではなく着こなしている人はおしゃれだなあと思う。

 

28.自分のスタイルを持っているところ。何かにこだわっている人ってかっこいい。

 

29.お洒落でイカすヘアスタイル。次はどんなかっこいい一面を見せてくれるのだろうと毎回楽しみにさせてくれるところ。

 

30.凝り固まった「らしさ」という固定観念を一笑するところ。きっとそんなものにとらわれない新しくて面白いものをたくさん見せてくれるのだろうという期待をさせてくれるところ。

 

31.亭主関白が嫌いだと言い切ってしまうところ。

 

32.嫌、嫌いなどをちゃんと言うところ。

 

33.私生活をある程度謎のままにするところ。やたらとプライベートを見せたり内面を明かしたりしないところ。

 

34.スタッフさんからの評判がとてもいいところ。「リチャードくんがいるとロケがスムーズです」とお礼を言われたり、律儀だと評されたり、ロケ現場で裏方のスタッフさんへのお辞儀を忘れなかったりというエピソードが、マル秘情報として出てくるところ。

 

35.メンバーやジャニーズ関係者の出演作を高頻度でチェックしている律儀で義理堅いところ。

 

36.「ああ、この人Aぇ! groupとそのメンバーのことが好きなんだろうな」と思わせるものが言動の節々に感じられるところ。

 

37. 人のことを言語化するのがうまいところ。


38.「この人、人のことをよく観察しているな」と思わせるほど、人の機微に敏感なところ。


39.年下やメンバーであっても、照れることなく褒めるところ。それを厭わない、その成熟した精神。

 

40.夢や目標に関する熱い思いも、ためらうことなくこちらと共有してくれるところ。

 

41.語る家族のエピソードが愛に満ちているところ。おばあちゃん、お母さん、お姉さんとかわいい犬や猫とのエピソードにいつも癒されています。

 

42.優しいところ。

43.長所:優しいところと自分で言えるところ。

 

44.図太いんだか繊細なんだかよくわからない、よくわからせてくれないところ。

 

45.大晴くん曰く「意外と共感を求めたがる」ところ。ブログで「~やんな?」と問いかけてくるときのテンションの可愛さ。

 

46.テンションが高いし話題があっちこっちに飛ぶので読んでいて元気の出るブログ。

 

47.いまいち自分のかわいさを理解していなさそうなところ。


48.「かわいい」を意識的にやっているであろうときにぶりっ子になっているところ。


49.そういう作られていない、不意にでるナチュラルな態度や言動がいちばんかわいいのに、おそらくわかっていないだろうところ。

50.打算を感じないところ。

 

51.最近、どうやら自分はかわいいと言われているようだと知り始めたっぽいところ。

 

52.無茶や無謀になりきれない、と頭を悩ませているところ。


53.ノリにモジモジして入れないところ。を自分で言ってしまうところ。

54.熟考してから行動したり発言したりする思慮深さ。

 

55.真面目で律儀なところ。


56.本人はちょっぴりそれを気にしてそうなところ。

 

57.どんなときも一歩引いたところから事態を観測してそうなところ。冷静さ。

 

58.むやみやたらと騒がない、落ち着いたテンション。騒ぐ年下たちを横目に正門さんと世間話をしているところ。

 

59.何事にも「リチャくんなら大丈夫だな」と安心できるところ。

 

60.草花や自然を愛でることのできる精神性。

 

61.忙しいだろうに、部屋に飾る花を選ぶ余裕を持つことを忘れないひとであるところ。


62.休みの日に絵を描いたり、Aぇのグッズのデザインを担当するなど、創造性豊かなところ。エネルギーの発散が創造性に向く人はすてきだなと思う。

 

63.しばしば言語化や思考を放棄する人間味あるところ。

 

64.トキメキが止まらない大きな手。
65.すらりと細く、それでいてちょっと驚くほど長い脚。
66.丈くんをお姫様抱っこしたり、晶哉ちゃんや陸くんをおんぶしたりと、その華奢な体躯のどこにそんなパワーが?と驚くほど、意外と力があるところ。

 

67.低くて落ち着く声。


68.礼儀や一般常識、金銭に対する感覚が浮世離れしておらず、地に足がついているところ。

 

69.両頬にできる恋の落とし穴。

 

70.両耳にある恋の落とし(ピアス)穴。


71.お芝居。とくに、『銀河鉄道の夜』ザネリ。

 

72.芝居でもネタでも、わざとらしく過剰に演じるときのキャラクターへの入り込み方。見ていて気持ちよくなるほどの演じっぷり。

 

73.「子供応援ラジオ」で、苦境にある子供たちに過度な共感を示したりアドバイスを提示したりするのではなく、慎重に言葉を選びつつも、子供たちの悩みに「寄り添う」ことを徹底していたところ。

 

74.以前は悩んでいた自身のルーツについて現在は、「自分の活動でジャニーズにもいろいろな人がいることを知ってほしい」、「自分のような人がジャニーズを目指すきっかけとなれたら」、と語っているところ。


75.悩みや失敗、自身の変化について客観視し言語化できるところ。同世代である私はまだまだこれがぜんぜんできないので、心の底から見習いたい。

 

76.メンバー、とくに大晴くんや晶哉ちゃんを見るときの慈しむような視線。

 

77.笑い上戸なところ。リチャくんの笑い声を聞いているだけでこちらまで楽しくなってきてしまうところ。笑いの法則リチャード。

 

78.サックスの演奏。元吹奏楽部員として管楽器を吹けるジャニーズは好きにならざるを得ない。

 

79.コンサートのときに、カラコンやアイメイクでバチバチに決めてくるところ。

 

80.カラコンやアイメイクでバチバチに盛れた姿を披露してくれるという、その精神性。

 

81.語彙がギャル。

 

82.ポーズがギャル(2010年代のギャル)。

 

83.行動がギャル。そして私はギャルが大好き。

 

84.インターネットカルチャーを通ってきていなさそうなところ。ギャルはインターネットカルチャーを通らない。

 

85."苦手"な相手を鬱陶しがる表情。あしらい方。

 

86.ムチで適当にあしらったかと思えば絶妙な力加減で繰り出されるアメの部分。リチャりゅちぇにはいつも瀕死にさせられています。

 

87.リチャくんにモノ申したらリチャくんが逆ギレするというAぇの楽屋ノリ。明らか理不尽にキレている人を見るのはとても面白いので。

 

88.散歩や生け花、一人旅を趣味とし、漬物や団子汁を好むなど、感性が常に老成しているところ。芋焼酎、私も好きです。

 

89.「(キュンとするのは)自立している人。恋人とは、お互いに自分の時間を大切にし会える関係が理想なので。」「(恋人に求めるのは)気を遣って、オレに合わそうとしないこと」など、恋愛を自立した者同士の対等なコミュニケーションとして捉えて語るところ。

 

90.対象年齢小中学生のドル誌の恋愛企画であってもそうした姿勢を崩さないところ。

 

91.ドル誌恒例質問「女の子の服装で好きなのは?」には「その子が着たいと思った服がいいと思うねん」、「好みのメイクは?」には「ナチュラルでも濃くても自分がよく見える術を知っている人がいいな」と答えるところ。

 

92.なんでかわからないけど胸キュンセリフの設定が大抵「ちょっとズボラなところがある甘えたな子を叱りつつもなんだかんだで振り回されてくれるし適当にあしらいつつも甘やかしてくれる系彼氏」なところ。

 

93.残念ながらコロナの影響で配信になったライブを「地球がAぇの箱推し同担拒否、逆に言えば味方につけたらすごいことになる」「お客さん全員が1列目になれる」と表現する、言葉選びのセンスと視点の転換。

 

94.masterpieceの間奏における組体操、Game of Loveの訳のわからない身体の反り方、ガッデム間奏における膝を曲げ体を反らせたリチャ末が上半身を組んで支え合う構図など、度肝を抜かれる体幹の強さ。

 

95.MステにジャニーズJr.が大集合したとき、Can do!Can go!の一節という短い尺の中で、本家の振りも完ぺきにこなしながらAぇポーズをサラッと2回も入れ込んでしまうという、長年の鍛錬とハンティング精神がなせる数秒で確実に魅せる技を見せたところ。


96.摩擦式で火起こしができ、番線が締められ、ドブをすくうことができ、テントをひとりで建てられるところ。無人島で身に着けたサバイバル能力、メロ。

 

97.いろいろと書いたけれど、結局のところめちゃくちゃかっこいいところ。


98.私でも見つけることができるところで輝いていてくれたこと。


99.自らの武器に磨きをかけ、チャンスに果敢に食らいつき、ときにはアイデンティティも強みにしながら、関西ジャニーズJr.という環境下で10年以上も夢を諦めずにいたところ。

 

100.そして今、Aぇ! groupの草間リチャード敬太として表舞台に立ち続け、輝き続けてくれているところ。

 

 

以上!余裕でしたね!

 

今年もリチャ担でいられることを本当にうれしく幸せに思います。

本当に本当に、お誕生日おめでとう。

 

 

THE GREATEST SHOW-NEN『一番のサンキュウ!』感想

 

 

放送終了後一か月近くたっておりますが、ようやくまとまった時間がとれたので感想を。

 

今回のTHE GREATEST-SHOW-NENは、劇団「空晴」座長の岡部尚子さん脚本・演出の『一番のサンキュウ!』。

 

前回の『銀河鉄道の夜』が動的で、鑑賞している自身の身体が踊り出すような感動を覚えたのとは対照的に、今回の『一番のサンキュウ!』は身体にじんわりと染み渡るようなあたたかな感動をもたらしてくれた作品でした。

 

まずなんといっても惹きつけられたのは、魅力的なキャラクターたち。

「誰が欠けても成立しないような物語」とは演出の岡部さんの言葉ですが、まさにその通りで、一番セリフの少ないカワタでさえも物語の上でキーパーソンになっており、1人1人に対して愛着のようなものが湧く舞台だったなあと思います。基本的にみんな優しいんですよね。

彼らがタイキくんとの関わりを通して何かを感じ、そして変化していく過程がコミカルに優しく描かれていて、笑いながらも深く考え込んでしまうような、そして最後にはじんわりと幸福感が染み渡るような作品でした。

 

仕事している姉に甥っ子の迎えを頼まれていたのにも関わらず、自分の複雑な気持ちにけりがつけられずそれを無視していたリク。赤ちゃんが泣くのは「迷惑」で年の離れたきょうだいは「恥ずかしい」…など、赤ちゃんに対し人一倍手厳しいキャラクター。タイキくんを預かることになったときの、あの迷惑そうな顔も忘れられません。

そんなリクの凝り固まった心が、マツモトさんの一件があり、タイキくんを本物の赤ちゃんとして接していくことで、緩やかに溶けていくのがわかり、とても暖かな気持ちになりました。甥っ子に対する思いまでもがリクの中で変わっていくのを見て、この成長をさぞかしお姉さまもお喜びになるだろう…と胸アツに。

そうした微妙な心の機微を見事に表現していた末澤さんの絶妙な演技といったら。タイキくんをはじめて抱いた場面の、ハッとしたような心の変化の表現が見事だなあと思いました。あとはなんと言っても笑顔。末澤さんの笑顔ってたまらなくかわいいし、一気にその場の空気を融解させてしまう何かがあるんですよね。

 

6人兄弟の長子として育ち、幼少期からきょうだいたちの面倒を見てきたソラオ。いわゆるヤングケアラーとして幼いころから大変だったはずです。彼の手慣れた赤ちゃんの扱い方を見るたびに、切ない気持ちになりました。そんな境遇で育っても、他者(とくに、なにか弱い部分を抱えたひと)への想像力があるソラオ、本当にやさしい人なんでしょうね。

そしてソラオ役の演技、今までの佐野くんの演技で一番好きかもしれないです。わりとテンションが高めでお話のアクセントになるような役が多めの印象だったんですけど、今回の優しくて柔らかい演技は普段の佐野くんの穏やかさならではのものだったのではないかと思っています。

ハヤシも優しくて、そしてなんだかいうことに深みがあるような、勝手に深みが出てきてしまうようなキャラクターだなと思いました。こじけんじゃん。

小島くんのあの小細工しないまっすぐな演技で発される言葉って、そのまま見ている者の胸にまっすぐ届くんですよね。

 

ウミノのキャラクターはとにかく軽薄でお調子者。友人の「できちゃった」話を野次馬的に面白がったり、女性と親しいハヤシをからかったりと、「あ~いるよねこういう男子」と思いながら見ていました。その一方で、タイキくんをすんなり受け入れるノリの良さだったり、マツモトさんの吉報に心の底からお祝いを送っていたり、幼馴染のために能をこっそり練習していたりと、絵にかいたような「憎めない良いヤツ」の側面も。マツモトさんにお祝いを伝えるときの「ぜんぶ、ぜ~んぶ、おめでとうございます!」の言葉が本当にまっすぐで、泣きました。

それにしても、ウミノは幼馴染に対して恋愛感情を抱いていたのか?というところはひとつ争点になりそうです。それまでのウミノのセリフ、「ちゃんと伝えずに」大切な人を失って「後悔」した経験があったり、人の彼女の話題は嬉々としていじるくせに自分の彼女の話題に触れるのはタブーだったり…といった態度からは、幼馴染のことが好きだった?と思うのですが。ただ、性別を明かさないまま「あいつ」「幼馴染」「夢を追う」等の情報のみで男性を想起させた一方で、「吹奏楽」「クラリネット」といった情報で女性なのでは?とおもわせる。こうした観客のジェンダーバイアスを試すような脚本的に、「女の幼馴染には恋愛感情を抱くにきまっているし、結婚式に出るのなんて辛いにきまってる」というバイアスを喚起している?と思わざるを得ません。福本くんの演技も、同情されている理由が本気でわからないといった感じでしたし。受け取る人によって解釈が別れそうですね。

 

みんなから便利に扱われたり、「マザコン」呼ばわりされていたり、若干キモ疎ましがられているという、なにかと不憫なポジションのヤマダ。

個人的に一番共感できないキャラクターだったなあと思います。特に、お母さんの様子を見に行ったハヤシの優しさを「母性」としたり、「赤ちゃんいらんとか思うわけない」と言えてしまったり、育児疲れや育児放棄といった事象にとても厳しく批判的な目を向けていたりと、母性信仰強めなところ。お母さんは赤ちゃんを愛するということは「当然」のことで、赤ちゃんをかわいがるという感情は「母性」によるもの。赤ちゃんを愛せない母親なんているはずないが、いたとしたらそれは母親「失格」である-とでも言いたげじゃないですか。「母性」の神聖化だったり絶対視だったり、ネグレクトは別の世界のことと断絶してしまうことにこそ、育児放棄や幼児虐待などの社会問題の目につながる問題があると思うんですよね。後ほど詳しく記述しますが。なので…もしかしたらこの作品のメッセージはヤマダの「実際信じられへんような親もおるよ。でもあんな酷いの一部やねん、ごくごく一部。そうじゃない人がほとんどや。」にあるのだとしたら…私は共感できないなと思いながら見ていました。目を背けたくなるような酷い事件も、日常との連続体にある。「酷い親」も、一年前までは「良い親」だったかもしれない。酷いものは酷いのだと本質主義的に考えたくないからです。タイキくんを「赤ちゃんとして」預かりたいと提案したり、「なんでいいことは報道されないのか」と憤ったり…そうしたロマンチスト的一面は美しい美徳でもあるけれど、他者や世界に対して理想主義的に働くこともあるな、とおもいました。 

という感じでお母さんに対しては幻想を抱きすぎなところのあるヤマダでしたが、同時に、タイキくんはじめ、赤ちゃんに対しては底なしの共感と慈しみを寄せていました。幼くして亡くなった自身の弟への思いがそうさせるのでしょうか。ソラオのおむつ替えもミルク授乳も人一倍熱心に見ていて、もしかしたら弟がいたらやりたかったことなのかもしれないな、と思うと切ない。

しかしリチャードくんの演技は安定感があって安心してみることができますよね。こんな風に自担としてではなくちゃんと登場人物として嫌うことができるというのも、「こういう人です」ということが演技として提示されているがゆえのことだよなあと個人的には思います。すこし仰々しく思える演技も、ヤマダの疎ましさによく合っていると感じました。そして朗読劇の部分は、さすがJr.大賞の「声優をやってほしい」部門に立候補しているだけあって、深みがあって落ち着く良い声。みっちり指導されてたっぽい赤ちゃんの抱き方もめちゃくちゃ様になっていて、聖母子像か何かかと錯覚してしまうほどでした。

 

そして、作中を通していちばん心情の変化が見られたカワタ。彼女が妊娠していなかったと聞いて喜んでしまったのは物語以前のカワタでしたが、タイキくんと出会った当初も赤ちゃんという未知の生命体に怯え、距離をとっていました。命に対して責任を持つことにたいして怯えていた無責任なカワタは、しかし、最終的にはタイキくんを抱っこします。よくやった。

それにしても、私はつくづく正門さんの荒めの演技が好きです。カワタにはちょっぴり雑で思いやりのないところがあるというのが、冒頭の物置部屋を漁るシーンですでにわかる、あのニュアンスの出し方というか。私は正門さんのたまに見えるダークな部分…突っ込みの語彙が物騒だったり横暴だったり…がとても好きなので、演技の上で彼のそうした部分が引き出されているのを見ると、そうそう!と膝を打ちたくなってしまうような痛快さを覚えるのです。(染、色はいい舞台だったな~)

 

あと、演劇の鑑賞の仕方として適当かというのはわからないのですが、キャラクターや脚本が当て書きということで、演じている本人のキャラクターと、舞台上の物語の中のキャラクターが重なって見えるのも、ファンならではの鑑賞体験だなあと感じ面白かったです。面白いお話はやはり人間の描写が豊かなものだと思うし、その豊かさは作り手さんの確かな観察眼に基づくんだろうな。個人的には、リチャードくんに当て書きされたキャラが「声小さいねん」「もっと出していけよ存在感」って言われる役で良かったなと思いました。

 

あとは、作中では一切しゃべらないけれど、タイキくんとマツモトさん。わが子を失ったマツモトさんの悲しみを癒すために用意されたリボーンドールであるタイキくん。はじめはただの人形だった舞台上のタイキくんが、6人に「赤ちゃん」として扱われることで、彼らだけではなく私の目にも命が宿っているように見えだすという、不思議な鑑賞体験でした。そして、タイキくんを「赤ちゃん」として扱うほどに、タイキくんが「赤ちゃん」でないことをまざまざと思い知らされ、赤ちゃんではないタイキくんとともにいたマツモトさんの気持ちはいかほどのものだっただろうと考えてしまうのです。だからこそ、第二子を授かった喜びによりタイキくんのことを忘れてしまったマツモトさんに対して、複雑な感情を抱いてしまったり。とても喜ばしいことだけど、ちょっぴり切なくもあります。

子供を亡くした母親がわが子の代わりにリボーンドールに癒しを求めることについては、賛否あるようです。それでも、「(子どもを失ったという)認めたくない現実に、個々人のペースで徐々に慣れていくことができます。移行期を支える手段としてこうした人形を使うことは、その期間が長すぎない限り、健全なことです」と述べる医師もいます。お母さんが悲しみの淵から立ち上がり、また幸せになるための移行期を支えるためのリボーンドール。きっと、日常だって同じように、悲しいことと楽しいことの連続体なのだと思います。もう立ち直れないのではないかと思うほど悲しいことが起きた後でも、移行期を経て、いずれ流れがゆっくりと良い方向に進んでいくという希望がある。そう思います。

(引用)リアルな赤ちゃん人形、わが子失った母親に静かなブーム 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News

 

 

そして、この作品のテーマである「育児」。最近個人的にケアの倫理と男性性について関心があるので、非常に興味深いテーマでした。

 

物語の舞台となるのは主に6人が働く会社の男子社員寮。

冒頭、カワタの口から発せられた「なんで男子社員寮に(赤ちゃんが)?」

非常にシンプルな問いですが、結構本質的だとも思いました。男性社会である男子寮に赤ちゃんがいるのは圧倒的「違和感」なんですよね。もし登場人物が全員女性の女子寮での出来事だとしたら、驚きはするもののもっと違った反応になっていたはず。

こうした違和感はどこから来るのか。「育児」というテーマから母親以外が疎外され、逆に母親は割り当てられた「育児」というミッションを一人で背負うことを強いられてしまうという状況はどこから来るのか。社会学者の多賀太によると、戦後日本社会では「サラリーマン的働き方」が男性の働き方・生き方の理想または標準とみなされ、またそうした期待が多くの男性に内面化されていったといいます。「サラリーマン的働き方」とは一家の稼ぎ手になる責任を負い、仕事において卓越し、職場が要請すれば残業でも赴任でもするなど職場に私生活を従属させ、そうした働き方を通じた出世競争に身を投じる、という働き方。しかし男性のそうした働き方は、家事や育児や介護などケアを一手に引き受けてくれる伴侶の女性ありきで成立してきました。戦後日本社会の経済発展は、男性に「サラリーマン的働き方」を求め、女性にケアの役割を一手に引き受ることを求めるという、性別役割分業の上に成り立ってきたということが言えるようです。

参考:多賀太(2018)「男性労働に関する社会意識の持続と変容 ─サラリーマン的働き方の標準性をめぐって」(以下、論文のPDF)

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2018/10/pdf/004-014.pdf

性別役割分業のもとでを語るうえで、「サラリーマン」はひとつのキーワードとなる。そう考えると、この舞台のテーマの一つが「育児」で、登場人物がみんなサラリーマンだというのは、非常に象徴的だなと思いました。

 

6人の住む社員寮は、「育児」が排斥された男性社会を象徴するものだと考えられると思います。

例えば、ウミノの「(子供は)好きとか嫌いとかの対象外、今はまだ」といったセリフ、カワタの「できちゃった」話を危機一髪の笑い話にして茶化すような雰囲気、女性と話すことに慣れているというハヤシをからかうような関係性…そんな風に、「できてなかった」で安心できたり、それを茶化せたり、赤ちゃんを預けた母親のみを責めることのできる、命に対し無責任でいられた立場の男性たち。彼らが、突如「育児」に向き合わざるを得なくなり、その男性の世界に「突然」現れた「赤ちゃん」に対して、「驚き」や「恐怖」の反応を示す…

そのまま、現実の社会問題を反映した象徴的な反応だな、と思いました。

出産・育児とは誰もが通る普遍のテーマ。どんな人にも赤ちゃんだったときがあり、また人生のどこかで親になる可能性があり、また親にならずとも、親せきや近所、社会において誰かの育児をサポートする側になり得ます。

そんな風に誰もが経験するはずの育児なのに、育児を母親以外にとっては「他人事」だと見なし、母親にばかり責任を押し付ける社会においては、母親の孤立が進み、中には重圧にまいってしまう人もいるでしょう。それが、マツモトさんがタイキくんを預けていった時のリクやヤマダの反応にも如実に表れていました。育児放棄に至ってしまうまで追い詰められてしまう母親もいるということに対して共感が至らなかったり、はたまた母親が育児の上で知り合いを頼ることにたいして「ないよな、いくら知り合いやからって赤ちゃん預ける?ないわ」という強い語気で責めたり。個人的には、「良い母親」と育児放棄をするような「悪い母親」に分断はできないし、されるべきではないと思っています。子供を愛する母親も子供を愛せない母親も地続きだし、ちょっとしたこと…たとえば支援の欠如や孤立…などでそうならざるを得ないこともある。「悪い母親」が「悪い」のはその母親の性質によるものだ、育児放棄はそうした悪い世界の話だ、という風に断絶した見方をしていては、身近な人の苦悩に気が付けないことだってあります。母親を「母性」とかいう言葉でがんじがらめにして孤立させ、孤立する母親に手を差し伸べず、そんなんだから出生率も低下の一途をたどりますわ!…とは、現実世界の話ですが。でも、現実社会においても、ハヤシのいうように「知らん、わからんで終わるのはしょうもない」というスタンスを大事に、誰かの負担に想像を巡らせて手を差し伸べられる心持でいたいし、そうした社会にしていかなければならないな~と思ったのでした。

 

でも、(人形ということを知らなかったウミノ、ハヤシ、カワタは)タイキくんを一晩放置していたことにたいして本当に焦っていたし、育児放棄に怒るヤマダだって、タイキくんを預ける松本さんに憤っていたリクだって、みんな赤ちゃんが大切で、大事にしないといけないものだということはわかっているんですよね。

そんな風に、赤ちゃんに向けられた慈愛の視線が大きければ大きいほどに、母親に向けられる非情な視線が浮き彫りになって、やりきれなくなってしまうのです。

 

それにしても、「育児」から疎外されている男性がそれにどう向き合い、どう変わっていくのか。そんな物語を、日本でも指折りの大きな男性団体であるジャニーズに所属するタレントが演じる、というのも、皮肉で面白い組み合わせですよね。既婚のジャニーズタレントが公の場で自身の育児について語ることは長らくタブー視されてきました。今もなお。初回放送時、福本くんは「社会的なテーマが盛り込まれているので、それにどう対応していくかも課題」と言っていましたが、それぞれにどう感じたのか、みんなにも聞いていたいなと思ったり。偶然にしろ意図的にしろ、結果として主なファン層である若い女性たちも育児について考えることとなる。とてもよいことだなと思いました。

 

 

世阿弥はこの能を、「古今集」仮名序の「高砂、住の江の松も、相生の様に覚え」という一節を題材として作出しました。「播州高砂、摂津の国住吉と、国を隔てて住みながらも、夫婦として暮らす老人老女」という人物設定で、長寿や老夫婦の睦まじさを称えるとともに、松の長生のめでたさを和歌の道の久しい繁栄になぞらえ、美しい詞章と、清々しい所作、舞いとで、傑出した表現を創り上げたのです。

能・演目事典:高砂:あらすじ・みどころ

そして最後に挿入される、高砂のシーン。ウミノは結婚する幼馴染にめでたい曲「高砂」を送ろうと、日々隠れて練習していました。高砂は結婚式でもよく演奏されることから主題が夫婦仲だと思われがちなのだそうですが、それだけでなく、和歌の道の末永い繁栄を祝う歌だということです。親に言われて音楽の道をあきらめてしまった幼馴染に、彼女の奏でる音楽が大好きで大切なウミノが送る曲として高砂が選ばれたことに、ジ~ンときました。

 

こうして普通の演劇の中に朗読劇や能を接合してみたりと、時間軸や空間軸を自在にパッチワークするようなお話の作りに、舞台の可能性って本当に無限なんだなと改めて感じました。この番組を通して、その広がりを毎週毎週感じることができ、一介の舞台好きとしても楽しいです。

 

 

暖かくも、ひそやかな気づきがある物語でした。ほっこりとした気持ちで鑑賞しながらも、非情な現実の端々が埋め込まれていたりして、小さく唸って考え込んでしまったり。日常はきっと悲しいことと楽しいことの連続体で、もう立ち直れないのではないかと思うほど悲しいことが起きた後でも良い方向にいくこともあれば、濁流のように流れてくる出来事の中で喜ばしいニュースが悲しいニュースに埋もれてしまったりもする。そんな日常の中で見逃されがちな目出たいことを拾い上げて、祝うということ。悲しみの日々の中で訪れた誰かの幸せに心の底から「おめでとう」をいうこと。ヤマダは「気持ちいいなあ、おめでとうって!」って言ってましたが、ほんとうにそうです。いつの時代も、祝いが紡がれますように、そんな祈りにも似た気持ちになった鑑賞体験でした。

 

今回の作品も本当に面白くて、改めてグレショーのある日々に感謝です。次回も楽しみ!

 

 

 

THE GREATEST SHOW-NEN『銀河鉄道の夜』感想

 

 

「身体のかかえる言語化(意識化)不可能なものが、私たちの生存の少なからぬ部分を根拠づけている。」(兵頭 2004)

 

 

 

「この身一つで」

嵐・二宮和也さんのジャニーズ論に、「普通の男の子たちがある一定の条件を満たすと神格化する、(コンサートは)その条件の一つ」という言葉があります。

 

「普通の男の子」に舞台装置や衣装、楽曲、観客といった、あらゆる人の手が加えられることによって、舞台の上の「神」として絶対的な存在になる。

しかし、ひとたびステージを降りたタレントたちはまるで本当に「普通の男の子」のように気さくで等身大で、それが私たちに親近感を覚えさせる。(もちろん、スターである時点で「身近」でも「普通の男の子」でもないのだけれど、画面の前の私たちにそう思わせる力がある)

ステージ上で歌って踊る「神」としてのジャニーズは、作曲家、演出家、照明、衣装、マネージャー、コンサートスタッフ…といった多くの人々の手によって集団的に作り上げられる、いわば総合芸術作品のようなものだなあと。

そうして、丸ごとが「神」を創出するためにあつらえられた特別な空間に参入することで、非現実的な異空間にトリップすることができる。

 

…おおむねそんな風に理解しています。ジャニーズの本質をついているなと思い、個人的に大好きな言葉です。

 

そうした私の思うジャニーズの精神と、今回の劇団鹿殺し×劇団タンクトップス『銀河鉄道の夜』のコンセプト「身一つでどこまで演劇を楽しめることに集中した作品を」は、ある種対立するものではないかと思いました。

そしてそれは、「あえて」選ばれたものではないかな、とも。

 

それは、劇団鹿殺しのザ・ショルダーパッズ版による「銀河鉄道の夜」のダイジェスト版を見ると、より鮮明に感じます。

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肩パッドを二枚ぬい合わせただけの、前張りに近い衣装。

限りなく生まれたままの姿に近い演者の身体です。

 

一方の劇団タンクトップス(Aぇ! groupと劇団鹿殺しの長瀬絹也、前川ゆうによる)に与えられた格好は、その名の通り黒のレザーのホットパンツとタンクトップ、サスペンダー、そしてなぜか蝶ネクタイ。

おそらく、テレビとジャニーズ的な都合でこのような変更が行われたのだろうと考えています。

それにしても、平素はスワロフスキーやファーをふんだんに使用した何キロもあるステージ衣装を纏うこともあるジャニーズタレントにしては、これ以上にないほどに生身の身体に近い格好ではないでしょうか。


露出が多く、一見すると滑稽でおかしな衣装。全5回あるうちの初回放送が終わった週には、衣装に対する戸惑いの反応や、からかいの反応が多くみられたことを覚えています。

 

そうした、カッコイイの舞台装置が使えない状態でやる演劇作品を、ジャニーズJr.の番組に選ばれたことに対し、ある種の「意図」のようなものを感じました。

 

稽古の映像で、演出家・菜月チョビさんが繰り返しおっしゃっていたこと。それは、「小道具とか衣装とか舞台美術とか豪勢なことをしない状態で」「かっこいい衣装に頼れない状態で」「自分の身体に価値があることを示して」ということでした。

 

この舞台で観客の目の前に提示されるのは、高いスワロフスキーもファーもない、簡素でシンプルな身体です。いわば、観客と同じ「人間」の身体だと思うのですが、しかしそこには絶対に超えられない壁がある。見る者と見られる者が混ざり合わない、絶対的な壁。

その役者と観客を隔てるものこそ、「お金を払う価値がある」ほどに高められたパワーや技術、作品として、劇団としての完成度なのだと感じました。

「普通の男の子」にかっこいい衣装や舞台装置で肉付けをしていくのではなく、無駄なものがそぎ落とされた生身の身体に価値がある、価値を持たせるのだという感覚。

それは、稽古によって極限まで洗練された舞台に対するみなぎる自信と、観客には決して真似できないというプライドを持って、お金を払う価値のあるものを身一つで提供する美学なのかな、と思いました。

 

「人間の強さだけで作る作品なので、皆さんの体を通してやっていただけたら」

 ―菜月チョビ

 

そんな美学を感じつつ、この作品ではとにかく、演者の身体表現にやられました。

 

菜月さんが一番大事だとおっしゃっていたオープニングのシーンは、とにかく圧巻でした。特に胸打たれたのは、末澤さんと佐野くんが身体を交差させ、髪を撫でつけるようにして胸を張るところ。二人のまなざしに籠った熱量と、全身にみなぎるエネルギー!目が釘付けになってしまいました。このふたりの所作はとてもきれいで、本当に舞台映えしますね。

 

男闘呼組『TIME ZONE』に合わせてみんなが踊る姿は群舞とも呼ぶべき力強さで、観ている私の手足にまでも力がみなぎってくるような感覚を覚えました。それは、コロナ禍の長引く自粛生活で次第にあいまいになっていった自分の身体感覚を取り戻すようでもあり、画面の前で踊り出しそうになってしまっていたことを思い出します。

 

そして、人は手足を力いっぱい広げて大きく動いている人を見ると、自然と力が湧きでるものなのだということを、改めて感じました。幼少のころ、力尽きるまで走り回ることを心の底から楽しいと思っていた感覚を取り戻した気分です。

 

コミカルでおげれつな動きも、シンプルに面白い。例えば教室でのジョバンニいじめのシーン、おしりをふりふりジョバンニに迫っていくいじめっ子たちの動きがおかしくて、それを何も恥じらうことなく全力でやる演者たちの姿が気持ちよくて、シリアスな場面なのに気が付けば笑っていました。銀河鉄道の途中で出会う、下手くそな白鳥ダンスにストンプも、ただただ頭を使うことなく感覚的に面白い。

 

そして、腹の底から出ているデカい声。デカい声って、なんであんなに面白いんでしょう?デカい声を出している人を見るのも、気持ちがいいし。特に教室でのカトウ(小島くん)のバカデカ「あー!!!!先生が来たぞー!!!!」は最高でしたね。

 

そして何と言っても「銀河ステーション」の最高さといったら!あれが嫌いな人間っているのでしょうか。心の中で、「マツケンサンバⅡ」のMVを見ているときと同じところが疼くのを感じました。

 

そうした、幼少期の頃持っていた純粋な身体の喜び、身体を目一杯使うことのたのしみ、面白いもの面白いと思う素直な感覚、のようなものを取り戻すような舞台でした。自然とジョバンニやカムパネルラと同じくらいの年齢になって舞台の世界に入り込み、銀河鉄道のダンスに胸躍らせ、銀河での旅で出会った人々に心動かされ、「本当の幸せ」を求める意味とは何か考え、そしてやがて訪れる別れに心を痛めている自分がいた。心洗われるような鑑賞体験でした。

 

願わくば、この作品を未就学の子供たちに鑑賞してもらって、感想が聞いてみたいものです。おそらく、細部は理解できなくとも、同じようなところで胸躍らせ、笑い、泣くのではないかと思います。

 

ところで、今たまたま手元にある本『世界演劇史』の著者であるカール・マンツィウス(1930)は、古代の芸術について、音楽と舞踊と演技と詩はもともとはひとつのものとして一緒に現れており、今のように個別には存在していなかったと主張しています。また、原始民族(原文ママ)の芸術文化をさかのぼると、そうした芸術の中でも、舞踊が最も最初に生まれ出たのではないか、ということです。

「原始民族の藝術的現象を調査してみると、(中略)ある感情を誰にも解る表現に發達させて、遂に藝術の一種を形造ったものは、舞踊が最初であったやうに思われる。舞踊の起源は、實に、我々の精神上の喜悦感情を反映した肉體の無意識的運動に他ならない。心が憂鬱に沈めば、軀は潑溂さを缺き、筋肉は弛緩し、四肢は萎縮するが、潑一度、精神に歡喜と興奮の衝動を與へると、忽ち肉體は輕快を覺え、筋肉は緊張し、四肢は活潑に動き始める。全く本能的にである。幸福な子供の跳ね廻る有様は、實に舞踊藝術の自發的起源を示すものである。

 ―『復刻版 世界演劇史 第一巻』

 

人間の持つ豊かな感情を、跳ね回る子供のように、身体で表現すること。人間が「芸術」という概念を覚える前の、誰もが持っていた原始的な衝動。そんなものを、全身を使って踊り、演じ、歌っていた役者の身体から感じた舞台でした。

 

「そうだ、シンプルな舞台を作ろう。演劇の最初の、原始的な面白さを伝えられるような、シンプルな舞台。そうして、今回の舞台を作る仲間、劇団タンクトップスが生まれたわけです。」

 ―『銀河鉄道の夜』(舞台)、正門さんの語り

 

また、そうした「面白い」演出の数々が、FunnyではなくInterestingのほうで心の底から面白いと思えたのは、やはり演者の方々が本気で、大真面目に、全身全霊を込めて取り組んでいらっしゃったからでしょう。

「今回パフォーマンスは面白いものがたくさんあるんだけど、本気じゃないとつまらないですよ。演劇になってコントになってしまうから。」

 ―菜月チョビ

菜月さんの指導の数々は、視聴者ながら感じ入ってしまうものばかり。その中でも、特にグッときた指導です。身一つでやる舞台だからこそ、その身体を最大限に使って演じないと、途端に世界観が崩れてしまう。身体ごと物語に没入し、本気で演じるからこそ、演劇作品としてちゃんと面白いものが出来上がるということでしょうか。画面越しに演者の皆様の本気が伝わってくるような舞台は、心の底から面白かったです。

 

現実と物語の世界の境界

舞台は、1人舞台裏に腰掛ける、正門さんの「語り」から始まります。

まだ何の役にも入っていない、そのままの正門さんが、視聴者に直接的に語り掛ける。それも、「コロナ禍における演劇界の苦悩」という、非常に現実的な話を。

語りを続ける正門さんは、舞台上へと移動し、そこで他のメンバーも合流。幕が開き、音楽が流れ、彼らの来ていたジャージは剝ぎ取られ、そのまま舞台が始まります。

「番組」を見ているかと思いきやいつの間にか舞台が始まっており、Aぇ! groupはじめ8人を見ていると思ったらいつの間にか「劇団タンクトップス」が目の前に現れていたのです。

また、物語の終わりには、劇団タンクトップスは再びジャージを羽織り、Aぇ! group、長瀬絹也、前川ゆうとして舞台から降り、舞台裏へと向かいます。

現実からフィクション、フィクションから現実への流れるような変化。

まるでいつの間にか物語の世界に迷い込み、そして徐々に夢から覚めていくような感覚を覚えたのでした。そこにあったはずの境界線が徐々に融解していくような感じです。

 

それはちょうど、原作『銀河鉄道の夜』の物語の最後、カムパネルラが落ちた川に夜空の銀河が映ることで、夢のなかでのジョバンニとカムパネルラの銀河鉄道での冒険と、現実の世界でのカムパネルラの死後の世界への旅立ちとがゆっくりとリンクしたような、あのときの読後感に似ている感じがしました。

下流の方は川はば一ぱい銀河が巨おおきく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。

銀河鉄道の夜』「九、ジョバンニの切符」

 

現実とフィクションの境界が緩やかに融解していく感覚は、演者たちの身体にも起こっているように感じました。

正門さんがしゃべっていると思いきや、いつの間にかそれはジョバンニになっており、そしてまたいつの間にか正門さんに戻っていく。派手な舞台メイクや衣装といったものを纏っていない正門さんの身体が、そのままジョバンニの身体とリンクしていくみたいな。

 

菜月さんは、配役を決めるに当たって、多少なりともAぇそれぞれのイメージや人柄を考慮したといいます。正門さんにいたっては、「見るからに」ジョバンニっぽいからあの配役だったとのこと。確かに、ファンの立場から見ても正門さんはとても「ジョバンニっぽい」印象です。

 

物語の主人公であるジョバンニは、友人のいない孤独な少年です。

家族の食費を稼ぐために、放課後は毎日アルバイト。病気がちの母親の看護もしなければなりません。今でいうヤングケアラー。父親は遠方に漁に出かけており、しばらく帰ってきていません。「ジョバンニの父親は密猟をしているのではないか」という噂から、クラスメートたちにはイジメを受けています。唯一の友人だったカムパネルラも、最近はクラスメイトのほうと仲良くやっていて、疎遠になってしまう。孤独を抱えた、心優しい家族思いの少年です。

劇団鹿殺し版の脚本のジョバンニは、孤独で根暗なだけでなく、父親の悪口を言うクラスメイトに果敢に立ち向かう勇敢さや、唯一の友人カムパネルラがクラスメイトや鉄道内で出会った女の子と仲良くするのに嫉妬する幼稚さなど、ジョバンニの持つ人間臭い部分にさらに肉付けがされており、より親近感を感じました。


そんな人間味のあるジョバンニと、正門さんの持つ存在感がマッチしており、なんというか配役に説得力を感じました。


霞を食って生きているような浮世離れした人も多いジャニーズにおいて異彩を放つ、正門さんの存在感というか、存在の質量というか、生の温度感というか、生々しさというか。それが、銀河鉄道において第四次の切符を持ち、ひとりだけ現実の世界との繋がりを持っていたジョバンニと不思議とリンクしてきませんか。

 

稽古シーンと本番シーンを交互に見せる番組の構造も相まって、正門さんとジョバンニの間の境界が曖昧になっていくような感覚を毎週覚えていたな〜と振り返ります。こういうの、ハマり役っていうんですかね。

 

 

殻を破る

番組の性質上、一か月足らず(実際に稽古ができる日数はどうやら1~2週間程度らしいのですが)で作品を仕上げなくてはならないらしく、今作品の稽古は特に詰め込んで行われたことが明かされていました。

(この制作形態に関しては賛否あるし、私も番組自体の抱えるジレンマだとは思っています。演劇に忠実であろうとするほど、ひと月という制約とAぇの多忙さゆえに、準備期間が十分に取れず、どこかで「妥協」をしなければならないというテレビ的な制約がネックになること。また、演劇に関しては素人の演者たちを指導し10日そこらで形にしなければならないというハードさもあり、劇団側に得があまりないのでは…とも。)

 

しかし、色々制約のある中で、Aぇ! groupのみなさんが、1週間足らずで100時間以上の過酷な詰込み稽古を乗り越え、高度な菜月さんの意図に果敢に食らいつく裏側の姿は、激しく胸打たれるものがありました。やっぱりなんだかんだで、苦労しながら何かを乗り越える人の姿というのは、胸を打ってしまうもの。

 

その中でも、とくに成長に胸打たれたのが、リチャードさんの演技です。

 

ところがジョバンニの病弱な母を演じる場面では、何度も菜月からのダメ出しを食らうことに。全身を使ったパフォーマンスで病弱さを演じるように求められるが、どうしでも“キレイに踊るダンサー”としての表現が前に出てしまい、菜月の要求する“観客の心に刺さるパフォーマンス”に応えきれない。「存在感として負けちゃう」と繰り返す菜月に、本番でリチャードはどう応えたのか?

THE GREATEST SHOW-NEN|朝日放送テレビ 2021年6月26日(土)放送

きれいに踊るダンサーとしての表現はできるけれど、今一つ殻を破ることができない。

 

これは、リチャードさんが以前から自身でも語っていた課題になります。

「ダンスも歌も演技も「リチャって一定の安定感がある」って言ってもらえるんですけど、「めっちゃスゴイな!」って人の想像を超えるレベルで安定するくらいになりたい。」

 ―『STAGE navi』Vol.44

稽古シーンでは、「もっと殻を破ってほしい」と、何度も何度も菜月さんから修正されながら、うまくその意図に応えることができずに模索するリチャードさんの姿が映っていました。

 

「もっとでしゃばってほしい」「存在感として負けちゃう」―そんな言葉でダメ出しを食らうリチャードさんを見ながら、果たして彼はこの業界でこんな言葉をかけられたことがあるのだろうかと考えていました。

「目印担当」「どこにいても目立つ」「オーラがある」「何をやってもサマになる」……そんな言葉の数々で表されてきたリチャードさんの「存在感」。おそらく本人の意図しないところでもそれがひとり歩きしてしまうような、それが「ズルい」とすら言われてしまうような環境です。本人のパーソナリティはその「存在感」とは対象的に、慎重で慎ましやかな気がするのですが。

そんな中、純粋にリチャードさんの芝居だけを見て言われた「もっとでしゃばってほしい」「存在感として負けちゃう」という言葉に、ファンながらに不意を突かれたような、心臓を鷲掴まれたような感覚でした。

 

そして本番。コミカルなようで、それでいてどこか不気味なジョバンニの母がそこにいました。リチャードさんの充分にでしゃばっている身体の動きが、コントロールや予測が不可能なものに対する恐ろしさのようなものを覚えさせ、私たちと異なる言語で話すものを見るような対話の不可能性すらも感じさせました。そうした違和感ありありの母親を演じることで、それがジョバンニの孤独をより強調しているような感じでした。

この作品の根底に流れるテーマである「身体」を、一番生々しく感じることができたのではと思います。

 

この成長には菜月さんも

「稽古途中からなりふり構わずになってきたときの人間臭い魅力が素敵だと思いました。」

 ― STAGE SQUARE Vol.52

と語り、8月7日放送の「神演技アワード」では見事リチャードくんを選出。

 

普段温厚なリチャードさんがいじめっ子のガキ大将・ザネリを演じる様、上手なダンスを超えた、人の心をわしづかみにするような存在感を発揮したジョバンニの母、そしてザネリと対照的な役割を見事に演じきった青年役と、この作品におけるリチャードさんの演技はどれも必見です。

 

 

 

 

 

本当に、本当に惜しむらくは、この素晴らしい作品を見てもらおうにもどこにも術がないことでして…

 

番組の再配信、円盤化を切に切に希望いたします。

 

 

参考文献

『STAGE SQUARE』Vol.52、p85、日之出出版

『STAGE navi』Vol.44、p84、産経新聞出版

カール・マンツィウス(著)、飯塚友一郎(訳)、(2000)「第一章 演劇の萌芽」『世界演劇史 第一巻』、p8、本の友社。

兵藤裕己(2004)「まえがき―劇的なるもの、メディアとしての身体」『岩波講座 文学5 演劇とパフォーマンス』、岩波書店

 

宮沢賢治(1934)「銀河鉄道の夜」、青空文庫、2010年11月1日、URL:

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html

、2021年9月17日閲覧。