2022/1/11

 

 

 

 

2022年1月11日、本日は草間リチャード敬太くんの26歳の誕生日です!めでたい!

 

普段はただただ言語化できない己の欲望に従ってオタクをしている私ではありますが、あえてそのドデカい「好き」の感情を、ひとつひとつ言語化して並べ立ててニヤつきたい日もある。とくにこんなめでたい日は。

というわけで、一粒万倍日に天赦日が重なる超ラッキーデイにバースデーボーイなスーパーラッキー自担の好きなところ100個くらい正座してちゃんと言えるかどうか検証してみようと思います。(引用で年齢がばれるね)

 


1.ダンス。ステージのどこにいたって目が釘付けになってしまう。音に合わせて踊るというより、音を可視化しているみたいだなと思う。

 

2.自分のダンスに自信を持っているところ。

 

3.その自信は圧倒的な練習量とたゆまぬ努力によって裏打ちされているというところ。

 

4.ダンスに関しては後輩であってもメンバーであっても容赦も手加減もしないというところ。

 

5.問題点の指摘と同じくらい、成長したところの評価も惜しみなく行うところ。そうした先輩としての在り様。

 

6.上手い人のダンスを見るときに心底楽しそうな表情をするところ。

 

7.少しハスキーな、少し鼻にかかった、でもクセのない、優しくて深みのある力強い歌声。

 

8.ドスの利いたガナリ声。好青年ひしめくジャニーズJr.において貴重な治安の悪さ。

 

9.歌声の安定感、リチャくんが歌い出しの曲の安心感。

 

10.ラップ。とりわけ、『Can't Stop』2番のクールでセクシーなラップがめちゃくちゃ好きなので皆さん聴いてください。

 

11.そうしたスキル全て圧倒的な練習量とたゆまぬ努力によって手にしたというところ。

 

12.自ら磨き上げた武器によってステージの上で誰よりも目立つ生粋のエンターティナーなところ。

 

13.売れたい、仕事が欲しいと折に触れて口に出すところ。その仕事への貪欲さ、アイドルとしてのありよう、大好き。

 

14.目立って褒められたいという思いからジャニーズに入ろうと決意したところ。そのような人が表舞台で輝くべきと思うので。

 

15.ジャニーズには自分で履歴書を送ったところ。自分で履歴書を送った派のジャニーズのこと、みんな好きでしょう。

 

16.とくにレギュラー番組以外のテレビ番組に出演する際の爪痕の残し方。振られたふりを確実に決める様。強打者のロングヒットを見ているようで気持ちがいい。

 

17.テロップ職人なところ。何を隠そう私がリチャくんを気になったきっかけが、男塾での強烈なテロップ(自分たちが過酷なキャンプロケをしているのに対しなにわ男子はかわいいワンちゃんとロケをしていると知った際の)「家でやったらええ」だったので。

 

18.とくにレギュラー番組以外のテレビ番組に出演する際のギアが数段入る瞬間。

 

19.美しく精悍な顔立ち。顔が好き。心底かっこいいと思う。ずっと見ていたい。

 

20.まるで狩人のようなまなざしで鋭い眼光を帯びることもあれば、可愛らしくきゅるきゅるときらめいたりもする、表情豊かなチャームポイントの瞳。

 

21.切れ込みの深い目頭と垂れている目尻の絶妙なバランス。


22.ダイヤモンドよりも煌めいている瞳の水分量。

23.美しい後頭部の曲線。ヘアスタイルによって露わになる造形美。


24.本人も気に入っているらしいワイルドなヒゲ。そして髭が似合うという強み。


25.ヒゲJr.という分野に果敢に挑もうとした精神。


26.自分に似合っているものは何か、「ジャニーズ(Jr.)らしさ」の枠にとらわれずに模索するところ。

 

27.おしゃれなところ。値段やブランド、流行に頼らず自分らしさを演出できる人、服に着られるのではなく着こなしている人はおしゃれだなあと思う。

 

28.自分のスタイルを持っているところ。何かにこだわっている人ってかっこいい。

 

29.お洒落でイカすヘアスタイル。次はどんなかっこいい一面を見せてくれるのだろうと毎回楽しみにさせてくれるところ。

 

30.凝り固まった「らしさ」という固定観念を一笑するところ。きっとそんなものにとらわれない新しくて面白いものをたくさん見せてくれるのだろうという期待をさせてくれるところ。

 

31.亭主関白が嫌いだと言い切ってしまうところ。

 

32.嫌、嫌いなどをちゃんと言うところ。

 

33.私生活をある程度謎のままにするところ。やたらとプライベートを見せたり内面を明かしたりしないところ。

 

34.スタッフさんからの評判がとてもいいところ。「リチャードくんがいるとロケがスムーズです」とお礼を言われたり、律儀だと評されたり、ロケ現場で裏方のスタッフさんへのお辞儀を忘れなかったりというエピソードが、マル秘情報として出てくるところ。

 

35.メンバーやジャニーズ関係者の出演作を高頻度でチェックしている律儀で義理堅いところ。

 

36.「ああ、この人Aぇ! groupとそのメンバーのことが好きなんだろうな」と思わせるものが言動の節々に感じられるところ。

 

37. 人のことを言語化するのがうまいところ。


38.「この人、人のことをよく観察しているな」と思わせるほど、人の機微に敏感なところ。


39.年下やメンバーであっても、照れることなく褒めるところ。それを厭わない、その成熟した精神。

 

40.夢や目標に関する熱い思いも、ためらうことなくこちらと共有してくれるところ。

 

41.語る家族のエピソードが愛に満ちているところ。おばあちゃん、お母さん、お姉さんとかわいい犬や猫とのエピソードにいつも癒されています。

 

42.優しいところ。

43.長所:優しいところと自分で言えるところ。

 

44.図太いんだか繊細なんだかよくわからない、よくわからせてくれないところ。

 

45.大晴くん曰く「意外と共感を求めたがる」ところ。ブログで「~やんな?」と問いかけてくるときのテンションの可愛さ。

 

46.テンションが高いし話題があっちこっちに飛ぶので読んでいて元気の出るブログ。

 

47.いまいち自分のかわいさを理解していなさそうなところ。


48.「かわいい」を意識的にやっているであろうときにぶりっ子になっているところ。


49.そういう作られていない、不意にでるナチュラルな態度や言動がいちばんかわいいのに、おそらくわかっていないだろうところ。

50.打算を感じないところ。

 

51.最近、どうやら自分はかわいいと言われているようだと知り始めたっぽいところ。

 

52.無茶や無謀になりきれない、と頭を悩ませているところ。


53.ノリにモジモジして入れないところ。を自分で言ってしまうところ。

54.熟考してから行動したり発言したりする思慮深さ。

 

55.真面目で律儀なところ。


56.本人はちょっぴりそれを気にしてそうなところ。

 

57.どんなときも一歩引いたところから事態を観測してそうなところ。冷静さ。

 

58.むやみやたらと騒がない、落ち着いたテンション。騒ぐ年下たちを横目に正門さんと世間話をしているところ。

 

59.何事にも「リチャくんなら大丈夫だな」と安心できるところ。

 

60.草花や自然を愛でることのできる精神性。

 

61.忙しいだろうに、部屋に飾る花を選ぶ余裕を持つことを忘れないひとであるところ。


62.休みの日に絵を描いたり、Aぇのグッズのデザインを担当するなど、創造性豊かなところ。エネルギーの発散が創造性に向く人はすてきだなと思う。

 

63.しばしば言語化や思考を放棄する人間味あるところ。

 

64.トキメキが止まらない大きな手。
65.すらりと細く、それでいてちょっと驚くほど長い脚。
66.丈くんをお姫様抱っこしたり、晶哉ちゃんや陸くんをおんぶしたりと、その華奢な体躯のどこにそんなパワーが?と驚くほど、意外と力があるところ。

 

67.低くて落ち着く声。


68.礼儀や一般常識、金銭に対する感覚が浮世離れしておらず、地に足がついているところ。

 

69.両頬にできる恋の落とし穴。

 

70.両耳にある恋の落とし(ピアス)穴。


71.お芝居。とくに、『銀河鉄道の夜』ザネリ。

 

72.芝居でもネタでも、わざとらしく過剰に演じるときのキャラクターへの入り込み方。見ていて気持ちよくなるほどの演じっぷり。

 

73.「子供応援ラジオ」で、苦境にある子供たちに過度な共感を示したりアドバイスを提示したりするのではなく、慎重に言葉を選びつつも、子供たちの悩みに「寄り添う」ことを徹底していたところ。

 

74.以前は悩んでいた自身のルーツについて現在は、「自分の活動でジャニーズにもいろいろな人がいることを知ってほしい」、「自分のような人がジャニーズを目指すきっかけとなれたら」、と語っているところ。


75.悩みや失敗、自身の変化について客観視し言語化できるところ。同世代である私はまだまだこれがぜんぜんできないので、心の底から見習いたい。

 

76.メンバー、とくに大晴くんや晶哉ちゃんを見るときの慈しむような視線。

 

77.笑い上戸なところ。リチャくんの笑い声を聞いているだけでこちらまで楽しくなってきてしまうところ。笑いの法則リチャード。

 

78.サックスの演奏。元吹奏楽部員として管楽器を吹けるジャニーズは好きにならざるを得ない。

 

79.コンサートのときに、カラコンやアイメイクでバチバチに決めてくるところ。

 

80.カラコンやアイメイクでバチバチに盛れた姿を披露してくれるという、その精神性。

 

81.語彙がギャル。

 

82.ポーズがギャル(2010年代のギャル)。

 

83.行動がギャル。そして私はギャルが大好き。

 

84.インターネットカルチャーを通ってきていなさそうなところ。ギャルはインターネットカルチャーを通らない。

 

85."苦手"な相手を鬱陶しがる表情。あしらい方。

 

86.ムチで適当にあしらったかと思えば絶妙な力加減で繰り出されるアメの部分。リチャりゅちぇにはいつも瀕死にさせられています。

 

87.リチャくんにモノ申したらリチャくんが逆ギレするというAぇの楽屋ノリ。明らか理不尽にキレている人を見るのはとても面白いので。

 

88.散歩や生け花、一人旅を趣味とし、漬物や団子汁を好むなど、感性が常に老成しているところ。芋焼酎、私も好きです。

 

89.「(キュンとするのは)自立している人。恋人とは、お互いに自分の時間を大切にし会える関係が理想なので。」「(恋人に求めるのは)気を遣って、オレに合わそうとしないこと」など、恋愛を自立した者同士の対等なコミュニケーションとして捉えて語るところ。

 

90.対象年齢小中学生のドル誌の恋愛企画であってもそうした姿勢を崩さないところ。

 

91.ドル誌恒例質問「女の子の服装で好きなのは?」には「その子が着たいと思った服がいいと思うねん」、「好みのメイクは?」には「ナチュラルでも濃くても自分がよく見える術を知っている人がいいな」と答えるところ。

 

92.なんでかわからないけど胸キュンセリフの設定が大抵「ちょっとズボラなところがある甘えたな子を叱りつつもなんだかんだで振り回されてくれるし適当にあしらいつつも甘やかしてくれる系彼氏」なところ。

 

93.残念ながらコロナの影響で配信になったライブを「地球がAぇの箱推し同担拒否、逆に言えば味方につけたらすごいことになる」「お客さん全員が1列目になれる」と表現する、言葉選びのセンスと視点の転換。

 

94.masterpieceの間奏における組体操、Game of Loveの訳のわからない身体の反り方、ガッデム間奏における膝を曲げ体を反らせたリチャ末が上半身を組んで支え合う構図など、度肝を抜かれる体幹の強さ。

 

95.MステにジャニーズJr.が大集合したとき、Can do!Can go!の一節という短い尺の中で、本家の振りも完ぺきにこなしながらAぇポーズをサラッと2回も入れ込んでしまうという、長年の鍛錬とハンティング精神がなせる数秒で確実に魅せる技を見せたところ。


96.摩擦式で火起こしができ、番線が締められ、ドブをすくうことができ、テントをひとりで建てられるところ。無人島で身に着けたサバイバル能力、メロ。

 

97.いろいろと書いたけれど、結局のところめちゃくちゃかっこいいところ。


98.私でも見つけることができるところで輝いていてくれたこと。


99.自らの武器に磨きをかけ、チャンスに果敢に食らいつき、ときにはアイデンティティも強みにしながら、関西ジャニーズJr.という環境下で10年以上も夢を諦めずにいたところ。

 

100.そして今、Aぇ! groupの草間リチャード敬太として表舞台に立ち続け、輝き続けてくれているところ。

 

 

以上!余裕でしたね!

 

今年もリチャ担でいられることを本当にうれしく幸せに思います。

本当に本当に、お誕生日おめでとう。

 

 

THE GREATEST SHOW-NEN『一番のサンキュウ!』感想

 

 

放送終了後一か月近くたっておりますが、ようやくまとまった時間がとれたので感想を。

 

今回のTHE GREATEST-SHOW-NENは、劇団「空晴」座長の岡部尚子さん脚本・演出の『一番のサンキュウ!』。

 

前回の『銀河鉄道の夜』が動的で、鑑賞している自身の身体が踊り出すような感動を覚えたのとは対照的に、今回の『一番のサンキュウ!』は身体にじんわりと染み渡るようなあたたかな感動をもたらしてくれた作品でした。

 

まずなんといっても惹きつけられたのは、魅力的なキャラクターたち。

「誰が欠けても成立しないような物語」とは演出の岡部さんの言葉ですが、まさにその通りで、一番セリフの少ないカワタでさえも物語の上でキーパーソンになっており、1人1人に対して愛着のようなものが湧く舞台だったなあと思います。基本的にみんな優しいんですよね。

彼らがタイキくんとの関わりを通して何かを感じ、そして変化していく過程がコミカルに優しく描かれていて、笑いながらも深く考え込んでしまうような、そして最後にはじんわりと幸福感が染み渡るような作品でした。

 

仕事している姉に甥っ子の迎えを頼まれていたのにも関わらず、自分の複雑な気持ちにけりがつけられずそれを無視していたリク。赤ちゃんが泣くのは「迷惑」で年の離れたきょうだいは「恥ずかしい」…など、赤ちゃんに対し人一倍手厳しいキャラクター。タイキくんを預かることになったときの、あの迷惑そうな顔も忘れられません。

そんなリクの凝り固まった心が、マツモトさんの一件があり、タイキくんを本物の赤ちゃんとして接していくことで、緩やかに溶けていくのがわかり、とても暖かな気持ちになりました。甥っ子に対する思いまでもがリクの中で変わっていくのを見て、この成長をさぞかしお姉さまもお喜びになるだろう…と胸アツに。

そうした微妙な心の機微を見事に表現していた末澤さんの絶妙な演技といったら。タイキくんをはじめて抱いた場面の、ハッとしたような心の変化の表現が見事だなあと思いました。あとはなんと言っても笑顔。末澤さんの笑顔ってたまらなくかわいいし、一気にその場の空気を融解させてしまう何かがあるんですよね。

 

6人兄弟の長子として育ち、幼少期からきょうだいたちの面倒を見てきたソラオ。いわゆるヤングケアラーとして幼いころから大変だったはずです。彼の手慣れた赤ちゃんの扱い方を見るたびに、切ない気持ちになりました。そんな境遇で育っても、他者(とくに、なにか弱い部分を抱えたひと)への想像力があるソラオ、本当にやさしい人なんでしょうね。

そしてソラオ役の演技、今までの佐野くんの演技で一番好きかもしれないです。わりとテンションが高めでお話のアクセントになるような役が多めの印象だったんですけど、今回の優しくて柔らかい演技は普段の佐野くんの穏やかさならではのものだったのではないかと思っています。

ハヤシも優しくて、そしてなんだかいうことに深みがあるような、勝手に深みが出てきてしまうようなキャラクターだなと思いました。こじけんじゃん。

小島くんのあの小細工しないまっすぐな演技で発される言葉って、そのまま見ている者の胸にまっすぐ届くんですよね。

 

ウミノのキャラクターはとにかく軽薄でお調子者。友人の「できちゃった」話を野次馬的に面白がったり、女性と親しいハヤシをからかったりと、「あ~いるよねこういう男子」と思いながら見ていました。その一方で、タイキくんをすんなり受け入れるノリの良さだったり、マツモトさんの吉報に心の底からお祝いを送っていたり、幼馴染のために能をこっそり練習していたりと、絵にかいたような「憎めない良いヤツ」の側面も。マツモトさんにお祝いを伝えるときの「ぜんぶ、ぜ~んぶ、おめでとうございます!」の言葉が本当にまっすぐで、泣きました。

それにしても、ウミノは幼馴染に対して恋愛感情を抱いていたのか?というところはひとつ争点になりそうです。それまでのウミノのセリフ、「ちゃんと伝えずに」大切な人を失って「後悔」した経験があったり、人の彼女の話題は嬉々としていじるくせに自分の彼女の話題に触れるのはタブーだったり…といった態度からは、幼馴染のことが好きだった?と思うのですが。ただ、性別を明かさないまま「あいつ」「幼馴染」「夢を追う」等の情報のみで男性を想起させた一方で、「吹奏楽」「クラリネット」といった情報で女性なのでは?とおもわせる。こうした観客のジェンダーバイアスを試すような脚本的に、「女の幼馴染には恋愛感情を抱くにきまっているし、結婚式に出るのなんて辛いにきまってる」というバイアスを喚起している?と思わざるを得ません。福本くんの演技も、同情されている理由が本気でわからないといった感じでしたし。受け取る人によって解釈が別れそうですね。

 

みんなから便利に扱われたり、「マザコン」呼ばわりされていたり、若干キモ疎ましがられているという、なにかと不憫なポジションのヤマダ。

個人的に一番共感できないキャラクターだったなあと思います。特に、お母さんの様子を見に行ったハヤシの優しさを「母性」としたり、「赤ちゃんいらんとか思うわけない」と言えてしまったり、育児疲れや育児放棄といった事象にとても厳しく批判的な目を向けていたりと、母性信仰強めなところ。お母さんは赤ちゃんを愛するということは「当然」のことで、赤ちゃんをかわいがるという感情は「母性」によるもの。赤ちゃんを愛せない母親なんているはずないが、いたとしたらそれは母親「失格」である-とでも言いたげじゃないですか。「母性」の神聖化だったり絶対視だったり、ネグレクトは別の世界のことと断絶してしまうことにこそ、育児放棄や幼児虐待などの社会問題の目につながる問題があると思うんですよね。後ほど詳しく記述しますが。なので…もしかしたらこの作品のメッセージはヤマダの「実際信じられへんような親もおるよ。でもあんな酷いの一部やねん、ごくごく一部。そうじゃない人がほとんどや。」にあるのだとしたら…私は共感できないなと思いながら見ていました。目を背けたくなるような酷い事件も、日常との連続体にある。「酷い親」も、一年前までは「良い親」だったかもしれない。酷いものは酷いのだと本質主義的に考えたくないからです。タイキくんを「赤ちゃんとして」預かりたいと提案したり、「なんでいいことは報道されないのか」と憤ったり…そうしたロマンチスト的一面は美しい美徳でもあるけれど、他者や世界に対して理想主義的に働くこともあるな、とおもいました。 

という感じでお母さんに対しては幻想を抱きすぎなところのあるヤマダでしたが、同時に、タイキくんはじめ、赤ちゃんに対しては底なしの共感と慈しみを寄せていました。幼くして亡くなった自身の弟への思いがそうさせるのでしょうか。ソラオのおむつ替えもミルク授乳も人一倍熱心に見ていて、もしかしたら弟がいたらやりたかったことなのかもしれないな、と思うと切ない。

しかしリチャードくんの演技は安定感があって安心してみることができますよね。こんな風に自担としてではなくちゃんと登場人物として嫌うことができるというのも、「こういう人です」ということが演技として提示されているがゆえのことだよなあと個人的には思います。すこし仰々しく思える演技も、ヤマダの疎ましさによく合っていると感じました。そして朗読劇の部分は、さすがJr.大賞の「声優をやってほしい」部門に立候補しているだけあって、深みがあって落ち着く良い声。みっちり指導されてたっぽい赤ちゃんの抱き方もめちゃくちゃ様になっていて、聖母子像か何かかと錯覚してしまうほどでした。

 

そして、作中を通していちばん心情の変化が見られたカワタ。彼女が妊娠していなかったと聞いて喜んでしまったのは物語以前のカワタでしたが、タイキくんと出会った当初も赤ちゃんという未知の生命体に怯え、距離をとっていました。命に対して責任を持つことにたいして怯えていた無責任なカワタは、しかし、最終的にはタイキくんを抱っこします。よくやった。

それにしても、私はつくづく正門さんの荒めの演技が好きです。カワタにはちょっぴり雑で思いやりのないところがあるというのが、冒頭の物置部屋を漁るシーンですでにわかる、あのニュアンスの出し方というか。私は正門さんのたまに見えるダークな部分…突っ込みの語彙が物騒だったり横暴だったり…がとても好きなので、演技の上で彼のそうした部分が引き出されているのを見ると、そうそう!と膝を打ちたくなってしまうような痛快さを覚えるのです。(染、色はいい舞台だったな~)

 

あと、演劇の鑑賞の仕方として適当かというのはわからないのですが、キャラクターや脚本が当て書きということで、演じている本人のキャラクターと、舞台上の物語の中のキャラクターが重なって見えるのも、ファンならではの鑑賞体験だなあと感じ面白かったです。面白いお話はやはり人間の描写が豊かなものだと思うし、その豊かさは作り手さんの確かな観察眼に基づくんだろうな。個人的には、リチャードくんに当て書きされたキャラが「声小さいねん」「もっと出していけよ存在感」って言われる役で良かったなと思いました。

 

あとは、作中では一切しゃべらないけれど、タイキくんとマツモトさん。わが子を失ったマツモトさんの悲しみを癒すために用意されたリボーンドールであるタイキくん。はじめはただの人形だった舞台上のタイキくんが、6人に「赤ちゃん」として扱われることで、彼らだけではなく私の目にも命が宿っているように見えだすという、不思議な鑑賞体験でした。そして、タイキくんを「赤ちゃん」として扱うほどに、タイキくんが「赤ちゃん」でないことをまざまざと思い知らされ、赤ちゃんではないタイキくんとともにいたマツモトさんの気持ちはいかほどのものだっただろうと考えてしまうのです。だからこそ、第二子を授かった喜びによりタイキくんのことを忘れてしまったマツモトさんに対して、複雑な感情を抱いてしまったり。とても喜ばしいことだけど、ちょっぴり切なくもあります。

子供を亡くした母親がわが子の代わりにリボーンドールに癒しを求めることについては、賛否あるようです。それでも、「(子どもを失ったという)認めたくない現実に、個々人のペースで徐々に慣れていくことができます。移行期を支える手段としてこうした人形を使うことは、その期間が長すぎない限り、健全なことです」と述べる医師もいます。お母さんが悲しみの淵から立ち上がり、また幸せになるための移行期を支えるためのリボーンドール。きっと、日常だって同じように、悲しいことと楽しいことの連続体なのだと思います。もう立ち直れないのではないかと思うほど悲しいことが起きた後でも、移行期を経て、いずれ流れがゆっくりと良い方向に進んでいくという希望がある。そう思います。

(引用)リアルな赤ちゃん人形、わが子失った母親に静かなブーム 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News

 

 

そして、この作品のテーマである「育児」。最近個人的にケアの倫理と男性性について関心があるので、非常に興味深いテーマでした。

 

物語の舞台となるのは主に6人が働く会社の男子社員寮。

冒頭、カワタの口から発せられた「なんで男子社員寮に(赤ちゃんが)?」

非常にシンプルな問いですが、結構本質的だとも思いました。男性社会である男子寮に赤ちゃんがいるのは圧倒的「違和感」なんですよね。もし登場人物が全員女性の女子寮での出来事だとしたら、驚きはするもののもっと違った反応になっていたはず。

こうした違和感はどこから来るのか。「育児」というテーマから母親以外が疎外され、逆に母親は割り当てられた「育児」というミッションを一人で背負うことを強いられてしまうという状況はどこから来るのか。社会学者の多賀太によると、戦後日本社会では「サラリーマン的働き方」が男性の働き方・生き方の理想または標準とみなされ、またそうした期待が多くの男性に内面化されていったといいます。「サラリーマン的働き方」とは一家の稼ぎ手になる責任を負い、仕事において卓越し、職場が要請すれば残業でも赴任でもするなど職場に私生活を従属させ、そうした働き方を通じた出世競争に身を投じる、という働き方。しかし男性のそうした働き方は、家事や育児や介護などケアを一手に引き受けてくれる伴侶の女性ありきで成立してきました。戦後日本社会の経済発展は、男性に「サラリーマン的働き方」を求め、女性にケアの役割を一手に引き受ることを求めるという、性別役割分業の上に成り立ってきたということが言えるようです。

参考:多賀太(2018)「男性労働に関する社会意識の持続と変容 ─サラリーマン的働き方の標準性をめぐって」(以下、論文のPDF)

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2018/10/pdf/004-014.pdf

性別役割分業のもとでを語るうえで、「サラリーマン」はひとつのキーワードとなる。そう考えると、この舞台のテーマの一つが「育児」で、登場人物がみんなサラリーマンだというのは、非常に象徴的だなと思いました。

 

6人の住む社員寮は、「育児」が排斥された男性社会を象徴するものだと考えられると思います。

例えば、ウミノの「(子供は)好きとか嫌いとかの対象外、今はまだ」といったセリフ、カワタの「できちゃった」話を危機一髪の笑い話にして茶化すような雰囲気、女性と話すことに慣れているというハヤシをからかうような関係性…そんな風に、「できてなかった」で安心できたり、それを茶化せたり、赤ちゃんを預けた母親のみを責めることのできる、命に対し無責任でいられた立場の男性たち。彼らが、突如「育児」に向き合わざるを得なくなり、その男性の世界に「突然」現れた「赤ちゃん」に対して、「驚き」や「恐怖」の反応を示す…

そのまま、現実の社会問題を反映した象徴的な反応だな、と思いました。

出産・育児とは誰もが通る普遍のテーマ。どんな人にも赤ちゃんだったときがあり、また人生のどこかで親になる可能性があり、また親にならずとも、親せきや近所、社会において誰かの育児をサポートする側になり得ます。

そんな風に誰もが経験するはずの育児なのに、育児を母親以外にとっては「他人事」だと見なし、母親にばかり責任を押し付ける社会においては、母親の孤立が進み、中には重圧にまいってしまう人もいるでしょう。それが、マツモトさんがタイキくんを預けていった時のリクやヤマダの反応にも如実に表れていました。育児放棄に至ってしまうまで追い詰められてしまう母親もいるということに対して共感が至らなかったり、はたまた母親が育児の上で知り合いを頼ることにたいして「ないよな、いくら知り合いやからって赤ちゃん預ける?ないわ」という強い語気で責めたり。個人的には、「良い母親」と育児放棄をするような「悪い母親」に分断はできないし、されるべきではないと思っています。子供を愛する母親も子供を愛せない母親も地続きだし、ちょっとしたこと…たとえば支援の欠如や孤立…などでそうならざるを得ないこともある。「悪い母親」が「悪い」のはその母親の性質によるものだ、育児放棄はそうした悪い世界の話だ、という風に断絶した見方をしていては、身近な人の苦悩に気が付けないことだってあります。母親を「母性」とかいう言葉でがんじがらめにして孤立させ、孤立する母親に手を差し伸べず、そんなんだから出生率も低下の一途をたどりますわ!…とは、現実世界の話ですが。でも、現実社会においても、ハヤシのいうように「知らん、わからんで終わるのはしょうもない」というスタンスを大事に、誰かの負担に想像を巡らせて手を差し伸べられる心持でいたいし、そうした社会にしていかなければならないな~と思ったのでした。

 

でも、(人形ということを知らなかったウミノ、ハヤシ、カワタは)タイキくんを一晩放置していたことにたいして本当に焦っていたし、育児放棄に怒るヤマダだって、タイキくんを預ける松本さんに憤っていたリクだって、みんな赤ちゃんが大切で、大事にしないといけないものだということはわかっているんですよね。

そんな風に、赤ちゃんに向けられた慈愛の視線が大きければ大きいほどに、母親に向けられる非情な視線が浮き彫りになって、やりきれなくなってしまうのです。

 

それにしても、「育児」から疎外されている男性がそれにどう向き合い、どう変わっていくのか。そんな物語を、日本でも指折りの大きな男性団体であるジャニーズに所属するタレントが演じる、というのも、皮肉で面白い組み合わせですよね。既婚のジャニーズタレントが公の場で自身の育児について語ることは長らくタブー視されてきました。今もなお。初回放送時、福本くんは「社会的なテーマが盛り込まれているので、それにどう対応していくかも課題」と言っていましたが、それぞれにどう感じたのか、みんなにも聞いていたいなと思ったり。偶然にしろ意図的にしろ、結果として主なファン層である若い女性たちも育児について考えることとなる。とてもよいことだなと思いました。

 

 

世阿弥はこの能を、「古今集」仮名序の「高砂、住の江の松も、相生の様に覚え」という一節を題材として作出しました。「播州高砂、摂津の国住吉と、国を隔てて住みながらも、夫婦として暮らす老人老女」という人物設定で、長寿や老夫婦の睦まじさを称えるとともに、松の長生のめでたさを和歌の道の久しい繁栄になぞらえ、美しい詞章と、清々しい所作、舞いとで、傑出した表現を創り上げたのです。

能・演目事典:高砂:あらすじ・みどころ

そして最後に挿入される、高砂のシーン。ウミノは結婚する幼馴染にめでたい曲「高砂」を送ろうと、日々隠れて練習していました。高砂は結婚式でもよく演奏されることから主題が夫婦仲だと思われがちなのだそうですが、それだけでなく、和歌の道の末永い繁栄を祝う歌だということです。親に言われて音楽の道をあきらめてしまった幼馴染に、彼女の奏でる音楽が大好きで大切なウミノが送る曲として高砂が選ばれたことに、ジ~ンときました。

 

こうして普通の演劇の中に朗読劇や能を接合してみたりと、時間軸や空間軸を自在にパッチワークするようなお話の作りに、舞台の可能性って本当に無限なんだなと改めて感じました。この番組を通して、その広がりを毎週毎週感じることができ、一介の舞台好きとしても楽しいです。

 

 

暖かくも、ひそやかな気づきがある物語でした。ほっこりとした気持ちで鑑賞しながらも、非情な現実の端々が埋め込まれていたりして、小さく唸って考え込んでしまったり。日常はきっと悲しいことと楽しいことの連続体で、もう立ち直れないのではないかと思うほど悲しいことが起きた後でも良い方向にいくこともあれば、濁流のように流れてくる出来事の中で喜ばしいニュースが悲しいニュースに埋もれてしまったりもする。そんな日常の中で見逃されがちな目出たいことを拾い上げて、祝うということ。悲しみの日々の中で訪れた誰かの幸せに心の底から「おめでとう」をいうこと。ヤマダは「気持ちいいなあ、おめでとうって!」って言ってましたが、ほんとうにそうです。いつの時代も、祝いが紡がれますように、そんな祈りにも似た気持ちになった鑑賞体験でした。

 

今回の作品も本当に面白くて、改めてグレショーのある日々に感謝です。次回も楽しみ!

 

 

 

THE GREATEST SHOW-NEN『銀河鉄道の夜』感想

 

 

「身体のかかえる言語化(意識化)不可能なものが、私たちの生存の少なからぬ部分を根拠づけている。」(兵頭 2004)

 

 

 

「この身一つで」

嵐・二宮和也さんのジャニーズ論に、「普通の男の子たちがある一定の条件を満たすと神格化する、(コンサートは)その条件の一つ」という言葉があります。

 

「普通の男の子」に舞台装置や衣装、楽曲、観客といった、あらゆる人の手が加えられることによって、舞台の上の「神」として絶対的な存在になる。

しかし、ひとたびステージを降りたタレントたちはまるで本当に「普通の男の子」のように気さくで等身大で、それが私たちに親近感を覚えさせる。(もちろん、スターである時点で「身近」でも「普通の男の子」でもないのだけれど、画面の前の私たちにそう思わせる力がある)

ステージ上で歌って踊る「神」としてのジャニーズは、作曲家、演出家、照明、衣装、マネージャー、コンサートスタッフ…といった多くの人々の手によって集団的に作り上げられる、いわば総合芸術作品のようなものだなあと。

そうして、丸ごとが「神」を創出するためにあつらえられた特別な空間に参入することで、非現実的な異空間にトリップすることができる。

 

…おおむねそんな風に理解しています。ジャニーズの本質をついているなと思い、個人的に大好きな言葉です。

 

そうした私の思うジャニーズの精神と、今回の劇団鹿殺し×劇団タンクトップス『銀河鉄道の夜』のコンセプト「身一つでどこまで演劇を楽しめることに集中した作品を」は、ある種対立するものではないかと思いました。

そしてそれは、「あえて」選ばれたものではないかな、とも。

 

それは、劇団鹿殺しのザ・ショルダーパッズ版による「銀河鉄道の夜」のダイジェスト版を見ると、より鮮明に感じます。

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肩パッドを二枚ぬい合わせただけの、前張りに近い衣装。

限りなく生まれたままの姿に近い演者の身体です。

 

一方の劇団タンクトップス(Aぇ! groupと劇団鹿殺しの長瀬絹也、前川ゆうによる)に与えられた格好は、その名の通り黒のレザーのホットパンツとタンクトップ、サスペンダー、そしてなぜか蝶ネクタイ。

おそらく、テレビとジャニーズ的な都合でこのような変更が行われたのだろうと考えています。

それにしても、平素はスワロフスキーやファーをふんだんに使用した何キロもあるステージ衣装を纏うこともあるジャニーズタレントにしては、これ以上にないほどに生身の身体に近い格好ではないでしょうか。


露出が多く、一見すると滑稽でおかしな衣装。全5回あるうちの初回放送が終わった週には、衣装に対する戸惑いの反応や、からかいの反応が多くみられたことを覚えています。

 

そうした、カッコイイの舞台装置が使えない状態でやる演劇作品を、ジャニーズJr.の番組に選ばれたことに対し、ある種の「意図」のようなものを感じました。

 

稽古の映像で、演出家・菜月チョビさんが繰り返しおっしゃっていたこと。それは、「小道具とか衣装とか舞台美術とか豪勢なことをしない状態で」「かっこいい衣装に頼れない状態で」「自分の身体に価値があることを示して」ということでした。

 

この舞台で観客の目の前に提示されるのは、高いスワロフスキーもファーもない、簡素でシンプルな身体です。いわば、観客と同じ「人間」の身体だと思うのですが、しかしそこには絶対に超えられない壁がある。見る者と見られる者が混ざり合わない、絶対的な壁。

その役者と観客を隔てるものこそ、「お金を払う価値がある」ほどに高められたパワーや技術、作品として、劇団としての完成度なのだと感じました。

「普通の男の子」にかっこいい衣装や舞台装置で肉付けをしていくのではなく、無駄なものがそぎ落とされた生身の身体に価値がある、価値を持たせるのだという感覚。

それは、稽古によって極限まで洗練された舞台に対するみなぎる自信と、観客には決して真似できないというプライドを持って、お金を払う価値のあるものを身一つで提供する美学なのかな、と思いました。

 

「人間の強さだけで作る作品なので、皆さんの体を通してやっていただけたら」

 ―菜月チョビ

 

そんな美学を感じつつ、この作品ではとにかく、演者の身体表現にやられました。

 

菜月さんが一番大事だとおっしゃっていたオープニングのシーンは、とにかく圧巻でした。特に胸打たれたのは、末澤さんと佐野くんが身体を交差させ、髪を撫でつけるようにして胸を張るところ。二人のまなざしに籠った熱量と、全身にみなぎるエネルギー!目が釘付けになってしまいました。このふたりの所作はとてもきれいで、本当に舞台映えしますね。

 

男闘呼組『TIME ZONE』に合わせてみんなが踊る姿は群舞とも呼ぶべき力強さで、観ている私の手足にまでも力がみなぎってくるような感覚を覚えました。それは、コロナ禍の長引く自粛生活で次第にあいまいになっていった自分の身体感覚を取り戻すようでもあり、画面の前で踊り出しそうになってしまっていたことを思い出します。

 

そして、人は手足を力いっぱい広げて大きく動いている人を見ると、自然と力が湧きでるものなのだということを、改めて感じました。幼少のころ、力尽きるまで走り回ることを心の底から楽しいと思っていた感覚を取り戻した気分です。

 

コミカルでおげれつな動きも、シンプルに面白い。例えば教室でのジョバンニいじめのシーン、おしりをふりふりジョバンニに迫っていくいじめっ子たちの動きがおかしくて、それを何も恥じらうことなく全力でやる演者たちの姿が気持ちよくて、シリアスな場面なのに気が付けば笑っていました。銀河鉄道の途中で出会う、下手くそな白鳥ダンスにストンプも、ただただ頭を使うことなく感覚的に面白い。

 

そして、腹の底から出ているデカい声。デカい声って、なんであんなに面白いんでしょう?デカい声を出している人を見るのも、気持ちがいいし。特に教室でのカトウ(小島くん)のバカデカ「あー!!!!先生が来たぞー!!!!」は最高でしたね。

 

そして何と言っても「銀河ステーション」の最高さといったら!あれが嫌いな人間っているのでしょうか。心の中で、「マツケンサンバⅡ」のMVを見ているときと同じところが疼くのを感じました。

 

そうした、幼少期の頃持っていた純粋な身体の喜び、身体を目一杯使うことのたのしみ、面白いもの面白いと思う素直な感覚、のようなものを取り戻すような舞台でした。自然とジョバンニやカムパネルラと同じくらいの年齢になって舞台の世界に入り込み、銀河鉄道のダンスに胸躍らせ、銀河での旅で出会った人々に心動かされ、「本当の幸せ」を求める意味とは何か考え、そしてやがて訪れる別れに心を痛めている自分がいた。心洗われるような鑑賞体験でした。

 

願わくば、この作品を未就学の子供たちに鑑賞してもらって、感想が聞いてみたいものです。おそらく、細部は理解できなくとも、同じようなところで胸躍らせ、笑い、泣くのではないかと思います。

 

ところで、今たまたま手元にある本『世界演劇史』の著者であるカール・マンツィウス(1930)は、古代の芸術について、音楽と舞踊と演技と詩はもともとはひとつのものとして一緒に現れており、今のように個別には存在していなかったと主張しています。また、原始民族(原文ママ)の芸術文化をさかのぼると、そうした芸術の中でも、舞踊が最も最初に生まれ出たのではないか、ということです。

「原始民族の藝術的現象を調査してみると、(中略)ある感情を誰にも解る表現に發達させて、遂に藝術の一種を形造ったものは、舞踊が最初であったやうに思われる。舞踊の起源は、實に、我々の精神上の喜悦感情を反映した肉體の無意識的運動に他ならない。心が憂鬱に沈めば、軀は潑溂さを缺き、筋肉は弛緩し、四肢は萎縮するが、潑一度、精神に歡喜と興奮の衝動を與へると、忽ち肉體は輕快を覺え、筋肉は緊張し、四肢は活潑に動き始める。全く本能的にである。幸福な子供の跳ね廻る有様は、實に舞踊藝術の自發的起源を示すものである。

 ―『復刻版 世界演劇史 第一巻』

 

人間の持つ豊かな感情を、跳ね回る子供のように、身体で表現すること。人間が「芸術」という概念を覚える前の、誰もが持っていた原始的な衝動。そんなものを、全身を使って踊り、演じ、歌っていた役者の身体から感じた舞台でした。

 

「そうだ、シンプルな舞台を作ろう。演劇の最初の、原始的な面白さを伝えられるような、シンプルな舞台。そうして、今回の舞台を作る仲間、劇団タンクトップスが生まれたわけです。」

 ―『銀河鉄道の夜』(舞台)、正門さんの語り

 

また、そうした「面白い」演出の数々が、FunnyではなくInterestingのほうで心の底から面白いと思えたのは、やはり演者の方々が本気で、大真面目に、全身全霊を込めて取り組んでいらっしゃったからでしょう。

「今回パフォーマンスは面白いものがたくさんあるんだけど、本気じゃないとつまらないですよ。演劇になってコントになってしまうから。」

 ―菜月チョビ

菜月さんの指導の数々は、視聴者ながら感じ入ってしまうものばかり。その中でも、特にグッときた指導です。身一つでやる舞台だからこそ、その身体を最大限に使って演じないと、途端に世界観が崩れてしまう。身体ごと物語に没入し、本気で演じるからこそ、演劇作品としてちゃんと面白いものが出来上がるということでしょうか。画面越しに演者の皆様の本気が伝わってくるような舞台は、心の底から面白かったです。

 

現実と物語の世界の境界

舞台は、1人舞台裏に腰掛ける、正門さんの「語り」から始まります。

まだ何の役にも入っていない、そのままの正門さんが、視聴者に直接的に語り掛ける。それも、「コロナ禍における演劇界の苦悩」という、非常に現実的な話を。

語りを続ける正門さんは、舞台上へと移動し、そこで他のメンバーも合流。幕が開き、音楽が流れ、彼らの来ていたジャージは剝ぎ取られ、そのまま舞台が始まります。

「番組」を見ているかと思いきやいつの間にか舞台が始まっており、Aぇ! groupはじめ8人を見ていると思ったらいつの間にか「劇団タンクトップス」が目の前に現れていたのです。

また、物語の終わりには、劇団タンクトップスは再びジャージを羽織り、Aぇ! group、長瀬絹也、前川ゆうとして舞台から降り、舞台裏へと向かいます。

現実からフィクション、フィクションから現実への流れるような変化。

まるでいつの間にか物語の世界に迷い込み、そして徐々に夢から覚めていくような感覚を覚えたのでした。そこにあったはずの境界線が徐々に融解していくような感じです。

 

それはちょうど、原作『銀河鉄道の夜』の物語の最後、カムパネルラが落ちた川に夜空の銀河が映ることで、夢のなかでのジョバンニとカムパネルラの銀河鉄道での冒険と、現実の世界でのカムパネルラの死後の世界への旅立ちとがゆっくりとリンクしたような、あのときの読後感に似ている感じがしました。

下流の方は川はば一ぱい銀河が巨おおきく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。

銀河鉄道の夜』「九、ジョバンニの切符」

 

現実とフィクションの境界が緩やかに融解していく感覚は、演者たちの身体にも起こっているように感じました。

正門さんがしゃべっていると思いきや、いつの間にかそれはジョバンニになっており、そしてまたいつの間にか正門さんに戻っていく。派手な舞台メイクや衣装といったものを纏っていない正門さんの身体が、そのままジョバンニの身体とリンクしていくみたいな。

 

菜月さんは、配役を決めるに当たって、多少なりともAぇそれぞれのイメージや人柄を考慮したといいます。正門さんにいたっては、「見るからに」ジョバンニっぽいからあの配役だったとのこと。確かに、ファンの立場から見ても正門さんはとても「ジョバンニっぽい」印象です。

 

物語の主人公であるジョバンニは、友人のいない孤独な少年です。

家族の食費を稼ぐために、放課後は毎日アルバイト。病気がちの母親の看護もしなければなりません。今でいうヤングケアラー。父親は遠方に漁に出かけており、しばらく帰ってきていません。「ジョバンニの父親は密猟をしているのではないか」という噂から、クラスメートたちにはイジメを受けています。唯一の友人だったカムパネルラも、最近はクラスメイトのほうと仲良くやっていて、疎遠になってしまう。孤独を抱えた、心優しい家族思いの少年です。

劇団鹿殺し版の脚本のジョバンニは、孤独で根暗なだけでなく、父親の悪口を言うクラスメイトに果敢に立ち向かう勇敢さや、唯一の友人カムパネルラがクラスメイトや鉄道内で出会った女の子と仲良くするのに嫉妬する幼稚さなど、ジョバンニの持つ人間臭い部分にさらに肉付けがされており、より親近感を感じました。


そんな人間味のあるジョバンニと、正門さんの持つ存在感がマッチしており、なんというか配役に説得力を感じました。


霞を食って生きているような浮世離れした人も多いジャニーズにおいて異彩を放つ、正門さんの存在感というか、存在の質量というか、生の温度感というか、生々しさというか。それが、銀河鉄道において第四次の切符を持ち、ひとりだけ現実の世界との繋がりを持っていたジョバンニと不思議とリンクしてきませんか。

 

稽古シーンと本番シーンを交互に見せる番組の構造も相まって、正門さんとジョバンニの間の境界が曖昧になっていくような感覚を毎週覚えていたな〜と振り返ります。こういうの、ハマり役っていうんですかね。

 

 

殻を破る

番組の性質上、一か月足らず(実際に稽古ができる日数はどうやら1~2週間程度らしいのですが)で作品を仕上げなくてはならないらしく、今作品の稽古は特に詰め込んで行われたことが明かされていました。

(この制作形態に関しては賛否あるし、私も番組自体の抱えるジレンマだとは思っています。演劇に忠実であろうとするほど、ひと月という制約とAぇの多忙さゆえに、準備期間が十分に取れず、どこかで「妥協」をしなければならないというテレビ的な制約がネックになること。また、演劇に関しては素人の演者たちを指導し10日そこらで形にしなければならないというハードさもあり、劇団側に得があまりないのでは…とも。)

 

しかし、色々制約のある中で、Aぇ! groupのみなさんが、1週間足らずで100時間以上の過酷な詰込み稽古を乗り越え、高度な菜月さんの意図に果敢に食らいつく裏側の姿は、激しく胸打たれるものがありました。やっぱりなんだかんだで、苦労しながら何かを乗り越える人の姿というのは、胸を打ってしまうもの。

 

その中でも、とくに成長に胸打たれたのが、リチャードさんの演技です。

 

ところがジョバンニの病弱な母を演じる場面では、何度も菜月からのダメ出しを食らうことに。全身を使ったパフォーマンスで病弱さを演じるように求められるが、どうしでも“キレイに踊るダンサー”としての表現が前に出てしまい、菜月の要求する“観客の心に刺さるパフォーマンス”に応えきれない。「存在感として負けちゃう」と繰り返す菜月に、本番でリチャードはどう応えたのか?

THE GREATEST SHOW-NEN|朝日放送テレビ 2021年6月26日(土)放送

きれいに踊るダンサーとしての表現はできるけれど、今一つ殻を破ることができない。

 

これは、リチャードさんが以前から自身でも語っていた課題になります。

「ダンスも歌も演技も「リチャって一定の安定感がある」って言ってもらえるんですけど、「めっちゃスゴイな!」って人の想像を超えるレベルで安定するくらいになりたい。」

 ―『STAGE navi』Vol.44

稽古シーンでは、「もっと殻を破ってほしい」と、何度も何度も菜月さんから修正されながら、うまくその意図に応えることができずに模索するリチャードさんの姿が映っていました。

 

「もっとでしゃばってほしい」「存在感として負けちゃう」―そんな言葉でダメ出しを食らうリチャードさんを見ながら、果たして彼はこの業界でこんな言葉をかけられたことがあるのだろうかと考えていました。

「目印担当」「どこにいても目立つ」「オーラがある」「何をやってもサマになる」……そんな言葉の数々で表されてきたリチャードさんの「存在感」。おそらく本人の意図しないところでもそれがひとり歩きしてしまうような、それが「ズルい」とすら言われてしまうような環境です。本人のパーソナリティはその「存在感」とは対象的に、慎重で慎ましやかな気がするのですが。

そんな中、純粋にリチャードさんの芝居だけを見て言われた「もっとでしゃばってほしい」「存在感として負けちゃう」という言葉に、ファンながらに不意を突かれたような、心臓を鷲掴まれたような感覚でした。

 

そして本番。コミカルなようで、それでいてどこか不気味なジョバンニの母がそこにいました。リチャードさんの充分にでしゃばっている身体の動きが、コントロールや予測が不可能なものに対する恐ろしさのようなものを覚えさせ、私たちと異なる言語で話すものを見るような対話の不可能性すらも感じさせました。そうした違和感ありありの母親を演じることで、それがジョバンニの孤独をより強調しているような感じでした。

この作品の根底に流れるテーマである「身体」を、一番生々しく感じることができたのではと思います。

 

この成長には菜月さんも

「稽古途中からなりふり構わずになってきたときの人間臭い魅力が素敵だと思いました。」

 ― STAGE SQUARE Vol.52

と語り、8月7日放送の「神演技アワード」では見事リチャードくんを選出。

 

普段温厚なリチャードさんがいじめっ子のガキ大将・ザネリを演じる様、上手なダンスを超えた、人の心をわしづかみにするような存在感を発揮したジョバンニの母、そしてザネリと対照的な役割を見事に演じきった青年役と、この作品におけるリチャードさんの演技はどれも必見です。

 

 

 

 

 

本当に、本当に惜しむらくは、この素晴らしい作品を見てもらおうにもどこにも術がないことでして…

 

番組の再配信、円盤化を切に切に希望いたします。

 

 

参考文献

『STAGE SQUARE』Vol.52、p85、日之出出版

『STAGE navi』Vol.44、p84、産経新聞出版

カール・マンツィウス(著)、飯塚友一郎(訳)、(2000)「第一章 演劇の萌芽」『世界演劇史 第一巻』、p8、本の友社。

兵藤裕己(2004)「まえがき―劇的なるもの、メディアとしての身体」『岩波講座 文学5 演劇とパフォーマンス』、岩波書店

 

宮沢賢治(1934)「銀河鉄道の夜」、青空文庫、2010年11月1日、URL:

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html

、2021年9月17日閲覧。

草間リチャード敬太さんと髪型

 

 

 

草間リチャード敬太くんをご存知でしょうか。

 

関西ジャニーズJr.内ユニットAぇ! groupの黄色・サックス担当。

DASH島の後輩・リチャード。

Myojo主催のJr.大賞において「将来ダンディになりそう」なJr.1位を獲得した人。

アメリカにルーツを持つ彼は、その個性やルーツを武器に関西ジャニーズJr.という熾烈な競争社会を戦ってきた戦士でもあります。

そのため、関西ジャニーズJr.を昔から応援している人にとっては、「目印担当」が慣れ親しんだキャッチフレーズかもしれません。

 

今回は、そんな今を時めく新進気鋭のアイドル・草間リチャード敬太くんの「髪型」について書きたいと思います。

 

クルクルとしたカールがキュートなウェービーヘア。

ときに金髪、ときに赤髪と派手な色に染めてみたり、サイドを借り上げた短髪だったり、伸ばしてお団子を作ってみたり。ストリート系の私服にもよく似合う、おしゃれな髪型が特徴的。自身の髪質を生かしたスタイリングは、映像でも誌面でもぱっと目を引きます。

 

しかしリチャードくんがこうして自分のスタイルを確立するまでには、様々な葛藤や模索もあったそう。

「ジャニーズ」に求められるスタイルと、自分のスタイルが合致せず、悩んだ時期もあったと言います。

例えば、"アイドルらしい髪型"といわれるものが皆の中に何となくあって、そこに当てはめようとする空気を感じることもある。でも僕のこの髪は地毛やし、自分でそれを受け止めきれてない時期はありました。

  ―『日経エンタテインメント!』2021年6月号

自分のコンプレックスをあげるとしたら、やっぱり髪の毛じゃないですか。みんなみたいに、目に前髪をサラッとかぶせようとどれだけ思ってもできるような髪じゃないから。

―『STAGE navi』vol.48

 

そもそもの話なのですが、ジャニーズの歴史を戦後からたどってみれば、容姿における「ジャニーズ」らしさを定義づけることはとても難しいことが分かります。個々のジャニーズタレント、グループを一つのカテゴリーに押し込めるのは到底無理なほど、そこには多様性があります。

にもかかわらず、なにが「ジャニーズ」らしさであるかという定義がいつの間にか構築され、権威性を持ち、誰が明文化したわけでもないのに、ジャニーズを語るものたちの間でまことしやかに使われています。

 

髪型にしてもそう。

かつて「ジャニーズ系」なんて言葉がはやった時期もありましたね(まだあるのか?)。もうオワコンとなりつつある概念だと思いますが、そこから連想されるのは、丸めのシルエットになるようワックスで盛り、前髪は目元ギリギリで軽く流してある髪型、ではないでしょうか。

 

対するリチャードくんの髪質は、くせのあるウェービーヘア。

 

「でも僕のこの髪は地毛やし、自分でそれを受け止めきれてない時期はありました。」と語るリチャードくんは、しかし、活動の中で様々な髪型に挑戦していくごとに、髪型をはじめ自身のスタイルについての考え方を新しくしていったようです。

 

 

2019年の後半ごろから髪を伸ばし始め、後ろで結べるほどの長さになったリチャードくん。

この頃のインタビューで次のように語っていました。

僕としては、「あ、ジャニーズってこんな子もいるんや」っていうのを、もっと広く知ってもらいたい。それは個人としてだけじゃなくて、Aぇ! groupは関西の個性豊かなメンバーがそろっているので、「ジャニーズ幅広くなったね」って思ってもらえたらいいな。

  ―『anan』2019年12月18日号「反骨のきらめき。」

多様なルーツを持つものを阻む「ジャニーズ」らしさに対して、「ジャニーズ」の枠組みにとらわれることなく、むしろ自分がその境界を広げていくのだという宣言。頼もしすぎませんか?

 

上記のインタビュー時の髪型は、前髪なしのハーフアップお団子だったリチャードくん。2020年、コロナによる自粛期間に入ったあたりからは半年近く、前髪ありのアレンジが定着していました。ジェルで全まとめで、その日のコンディションで前髪を右か左に流すそう。ハーフアップ期間は長かったので、記憶している方も多いのではないでしょうか。

 

それまでサイドを刈り上げた短髪スタイルが定番だった彼にとって、髪を結べる長さまで伸ばしたことはひとつの転機だったようです。

最近初めて髪を伸ばしてみてくくってみたりすることで、ちょっとアレンジできるようになると「髪の毛、長い方がいいやん」って周りからも言ってもらって、自信が付きましたね。

 ―『STAGE navi』vol.48

「自信がついた」なんて、好きな人の口から聞きたいセリフでしかないですよね。

 

また、前髪ありのスタイルが定着したちょうど同じ頃、コロナ禍で制限されていたライブが、配信という形で再開するようになりました。

そうした中、カラコンとアイメイクをしてライブに出るようになったリチャードくん。本人曰く「気分転換で髪を染める感覚で目の色も変えてる感じ」とのことで、カラコンはグレー、ブルー、ベージュのバリエーションがあるようです。

最近はライブのときに目尻に跳ね上げラインを描いてる。

(中略)最近は配信のライブが多くてアップにもなるし、そういうこだわりは芽生えてきたかも。

  ―『Stage fan』vol.11

最高のエンターテイナーじゃないですか。

日誌でも「ライブのカラコンどうだった?」とこちら側に問いかけてくれて、マジサイコー、アゲ!と思った記憶があります。

 

同時期の雑誌の撮影においても…

ああ、自分の好きな人が、その人に向けた称賛をきちんと受け取ってくれているということ。自身の容姿にこだわりと自信を持ち、そしてその素敵に仕上げられた姿をこちらに見せてくれるということ。その喜ばしさ、めでたさよ。

それってアイドルオタクにとっての本望みたいなところ、ないですか?

 

話がそれましたが、髪を伸ばして様々なアレンジに挑戦することで、自分に似合うスタイルを見つけ出していったリチャードくん。

 

 

2021年1月には、ヘアカタログ雑誌の企画でアフロヘアを初披露。

 

大好評を博した「クラウド3Dカラーアフロ」を本人も気に入ったようで、番組のリハーサルなどでアフロスタイルで来ることも増えたよう。

このことについて、

今日もそうやけど、最近自分の素の髪型で雑誌や番組に出られるようになってきたんですよ。(中略)自分に自信がついたのかもしれないですね。

  ―『anan』2021年6月16日号

と言っていました。最高。

 

そしてみんなの記憶に新しい、コーンロウ事変が起きたのは2021年3月。

ことの発端は2021年3月6日のらじらーサタデーにゲスト出演した小島くんのこの一言。

たしか新宿のど真ん中で信号待ちをしているときにこのツイートを見たのですが、あやうく絶叫して職務質問されるところでした。ツイッターのタイムラインが騒然としたのを覚えています。

 

後に、このコーンロウはABCテレビのドラマ『ジモトに帰れないワケあり男子の14の事情』用の役作りだったことが判明。

というわけで以下の動画でコーンロウリチャードくんをご覧ください。

youtu.be

めちゃくちゃイカしてますね、最高、アゲ

私はリチャくんの後頭部の曲線がとても美しいなと思っていつも見ているのですが、それがくっきりとわかる髪型なのも素晴らしいなと思いました。

 

ちなみにこのドラマ、関ジュメンバーがオムニバス形式で出演、リチャードくんの役どころは、なかなか試合に勝てないプロボクサーのテル役なのですが、なかなか作り手の「リチャくん♡」愛が全開の私情にまみれた職権濫用回だな…と感じたので、お時間ある人は見てみてほしいです。Paraviで配信中だそう。

www.asahi.co.jp

ただ残念なことに、コーンロウの寿命は2~3週間。ドラマの撮影とプロモーション期間が過ぎたら解いてしまったよう。

メンテナンスや髪へのダメージも大変そうなのでそうそう拝めるわけではないレアな髪型、リアルタイムで目撃できたこの幸運に感謝です。

 

こうしてアフロヘアやコーンロウなどの髪型を経て、

いっそのことドレッドしようかな、、

髪型変えられるって楽しいね!笑

  ―『Aぇ!!!!!!』3月26日更新

またいろいろと新しい髪型にも挑戦していきたいなと思っているので乞うご期待!

  ―『Aぇ!!!!!!』5月8日更新

と、ワクワクするような表明を日誌でしてくれました。期待しちゃうんだが?

5月初旬に頭頂部で髪を一つにくくるスタイルになって以降はそれで安定していますが(本人曰くそれが一番楽なヘアスタイルらしい)、機会があればあんな髪型やこんな髪型をしてほしいものです。ちなみに私のPinterestの最新の検索履歴は「Curly afro hairstyles」です。

 

そしてこの宣言。

やっぱ賛否両論あるけど僕は最近自分のポテンシャルをしっかりいかすことに重きを置いてるのでそこも含めて僕を好きになってちょ!

  ―『Aぇ!!!!!!』5月8日更新

普段 居心地のいいタイムラインの中でぬくぬくとインターネットをしているので賛否の"否"なんぞ聞いたことがなくびっくりしたのですが、それよりなによりなんて力強くて愛おしい宣言なのだろうと胸の前で手を合わせてしまいました。世界の神様達よ 彼は良い人よだから絶対幸せにYeah…(from Berryz工房『単純すぎなの私・・・』)

 

既存の「ジャニーズらしさ」に迎合することなく、自身の個性を否定することなく、自分のポテンシャルを生かしていく宣言。これほど頼もしく、ワクワクする宣言があるでしょうか。 

 

ライブでも目立つし、自分の顔立ちに合うこの髪質でよかった。得してます。

(中略)鏡見て、自分で似合ってると思えれば、何だってアリ!自分だけのスタイルでいきたいですね。

  ―『FINEBOYS +おしゃれヘアカタログ 2021 SPRING-SUMMER』

 

私は常々、自分の好きな人がその人自身のことを好きなことほど幸せなことはないと思っているのですが、この文章を読んでことさらにこれを感じました。 自分に自信を持っている人って、最強に美しいですしおすし

モデルの仕事にも挑戦したいそうなのですが、ファンとしても本当に切望しています。個人的にはリチャードさん表紙のPOPEYEを読むまで死ねないな~と思ったり、装苑でゴリゴリのメイクをしたモードなリチャードくんが見てみたいと思ったり。え、でもVOGUEでも似合うし、NYLONは言わずもがなだし、BRUTUSの京都特集の回は外せなくない?ということで、微力ながら要望ハガキを出しつつ、あんな未来やこんな未来を夢想する日々です。可能性は無限大。

 

 

そしてついに2021/8/15、松竹座で行われている関西ジャニーズJr.のコンサートSummer Specialの夜公演、ふわふわアフロスタイルで登場したようです(ありがとうレポの数々)(アフロヘアで観客の前に登場するのは、舞台『青木さんちの奥さん』以来二度目らしいですが)。

 

レポを見て私の脳裏によぎったのは、「"アイドルらしい髪型"といわれるものが皆の中に何となくあって、そこに当てはめようとする空気を感じることもある。でも僕のこの髪は地毛やし、自分でそれを受け止めきれてない時期はありました。」という言葉。そう語ったリチャードくんが、自分のポテンシャルを最大限生かしたアフロヘアで、「ジャニーズ」のアイドルとして、ステージの上に立った日。オタクはこの日に、勝手に特別の輝きを感じずにはいられないのです。きもくてごめん。

 

実はアフロヘアで登場することが不安で裏でスタッフさんに「大丈夫ですかね?」と何度も確認していたことを末澤くんに暴露されていました。お客さんに不満に思われ「チケ代返せ」と言われることを心配していたとか。

そんなわけないのにね!そんなわけないんだよ!!!少なくとも私の観測範囲ではアフロヘアに対して絶賛の嵐でした。

雑誌で見ても素晴らしくかっこよかった髪型なのに、生で見たらどうなっちゃうんでしょうね。どうにかなりたいので、もし気が向いたならまたコンサートでやってほしいものです。

 

 

 

これからもその最強にかっこいい、個性的なスタイルで、「ジャニーズ」を切り拓いていくリチャードくんを応援し続けたいなあと思ったのでした。

 

ここまで読んでくださった皆さんもそうでしょ?

 

 

 

 

僕はもとから全てがみんなと違うので、一般的に言う"アイドル"に寄せる必要は無いのかなって

(中略)だけど「自分をどう見せたらいいか?」を探って分かってるのは、自分。最大限、自分の容姿を生かせることができたらいいじゃないですか?

「こういうタイプのアイドルもいるんだよ」っていう方向で、僕は自分なりのアイドルをやっていけばいいのかなとおもっています。

  ―『STAGE navi』vol.48

 

 

 

 

 

 

 

参考資料一覧

 

1.『日経エンタテインメント!』No.291, (2021), 日経BP, p134.

2.『STAGE navi』vol.48, (2020) 産業新聞出版, p91.

3.『anan』2019年12月18日号, (2019), マガジンハウス, p125.

4.『Stage fan』vol.11, (2021), 株式会社メディアボーイ, p49.

5. 『anan』2021年6月16日号, (2021), マガジンハウス, p119.

6. 草間リチャード敬太,『Aぇ!!!!!!』, 2021年3月26日, Johnny’s web, https://www.johnnys-web.com/s/jwb/diary/detail/123464?ima=0440&cd=767#diarid123464, (2021年8月17日閲覧).

7.草間リチャード敬太,『Aぇ!!!!!!』, 2021年5月8日, Johnny’s web, https://www.johnnys-web.com/s/jwb/diary/detail/144844?ima=0440&cd=767#diarid144844, (2021年8月17日閲覧).

8.『FINEBOYS +おしゃれヘアカタログ 2021 SPRING-SUMMER』, (2021), 日之出出版, p103.

 

舞台『染、色』感想

 

舞台「染、色」を観ました。

大ネタバレ感想ブログです。

感想、考察をかいつまんで書いているため、未見の方はなんのこっちゃでしょうが、鑑賞された方は読んでくださったらうれしいです。

お時間あれば感想等貰えれば…

https://marshmallow-qa.com/f_ool_?utm_medium=url_text&utm_source=promotion

 

 

原作・脚本 加藤シゲアキ 

演出 瀬戸山美咲

主演 正門良規(Aぇ! group)

 

【あらすじ】

深馬(正門良規)は一目置かれる美大生で、恋人や友人、先生から作品を期待されているが、本人は思い通りにならず悶々としていた。気を紛らすように街の壁にグラフィティアートを落書きする深馬。しかしあくる日、その絵は自身が描いたものとはわずかに異なっていた。違和感の中で、深馬は何者かの気配を感じるようになり、色褪せていた日常は思わぬものに変化していく。

INTRODUCTION |舞台『染、色』公式【原作:脚本】加藤シゲアキ【主演】正門良規

 
才能と凡庸


・「秋に咲いちゃった桜って、次の春も咲けるのかなって」

春に咲くはずの桜が秋に咲く理由|NIKKEI STYLE


上記サイトによると、桜は本来、夏の間に翌春の花芽を作ってから休眠に入るそう。しかしその際、何らかの外因によって夏に落葉してしまうと、その寒さを冬が訪れ、再び暖かくなったときに春が訪れたと勘違いし、秋でも開花することがあるそうです。不時現象と呼ばれるそれは、やはり才能の開花と、一度咲いてしまった才能の枯渇について表しているのかなあと思いました。幼いころから美術の才能を周囲に認められ、入学時にはすでに誰からも一目置かれるほどの優等生だった深馬。しかし大学3年生になり、スランプに陥り、創作への情熱も徐々に失われつつあった彼。才能とは、無限のものなのか。それとも一度才能が枯渇してしまった芸術家は、凡人に戻るしかないのだろうか。北見に「それって、同じ花?」と縋るように聞く深馬から、そんな痛いほどの焦燥と、それでもなお諦めがつかずに悶々としている心情を感じ取りました。
(なお、上記サイトによると「もちろん、不時現象が起きてしまっても、その木の桜は来春に楽しむことができます」だそう)


凡庸で、退屈なほどに良い子の杏奈。いつも誰かの後について回る原田。いたって「普通」の男子大学生、北見。そして「シナモン的」、いつも脇役の滝川(この喩え思いついた深馬、ヤバい)。そんな凡庸な人々が一目置く才能を持った深馬。しかしその「才能」も、美術教育のカリキュラムにおける優等生的「才能」であるということが、真未という才能との対比により痛々しく示されます。凡庸な杏奈を疎ましく思い、同級生たちを見下しながらも、自身もまた「優等生」のレールの上をおとなしく進んできたにすぎない凡庸な深馬。真未に「普通だな」と言われた後の深馬の、肩の力ががっくりと抜けたような、それでいてどこかほっとしているかのような演技は、俳優正門良規の演技が見事だなあと思いました。深馬は自分の背負っているものからどこか解放されたかったのかもしれないですね。

私なんぞは、何者かになりたくてもなれなかった側の人間、才能にあこがれつつも才能がないことに気が付いてしまった凡庸側の人間なので、非常に苦々しい、古傷の痛むような思いをしながらの鑑賞体験でした。


しかし、アカデミズムと才能、就職活動と自由を対比する加藤さんもなかなか意地が悪いですね。ついほくそえんでしまいました。

 

 

深馬と真未について


・真未は深馬の見た幻覚であり、深馬のオルターエゴが他者として立ち現れたもの(と、解釈しました)であるということが最後に明かされます。絵を描くことを「歩くことと同じ」と言い、(深馬的には)何にも縛られずに自由に芸術に打ち込んでいる真未に対し、深馬は羨望のまなざしを向けます。それに欲望の視線が重なり、すぐに2人は身体の関係に。真未は深馬にとって、深馬が内に抑圧していた欲望が表出し具現化した存在、「こうなれたらいい」と願いながらもなれなかった理想像なのではないかなと思いました。ていうか、深馬=真未と考えると、真未が歯に衣着せぬ物言いで北見や滝川の作品についてぼろくそに言っていたのも(深馬よ…)となりますよね。深馬本人が言っていたように、確かに、全然謙虚なんかじゃない。

では、深馬と真未の関係は、深馬にとって何の意味を持つのか。思い出すのが、真未の「一人じゃ何もできないくせに」(うろ覚えですが)というセリフと、そのあとに真未に抱き着き、押し倒す深馬のこと。そして、なぜ僕の絵を壊したと問い詰めるシーンの後の、「ふたり一緒なら何にだってなれるんだよ」と深馬に縋る真未のこと。真未、未だ真にあらず という名前。そして、みうま、まみという、対になる名前のこと。出会いのシーン、白と黒の対照的な衣装を着ていたふたりのこと。


つまり、深馬にとって真未とは、オセロの駒の片面のように、対照的でありながらもぴったりと対になる存在であり、二つバラバラだと真でない状態だが、合わさった状態で「完全」になり、何だってできるようになると、そういう風に読み取れます。では、2人が合わさった状態は、何を表しているのか。私はそれを、「芸術の完成」であると解釈しました(そして実際、2人は一緒に活動をすることで世間を騒がせるような作品を次々と造り上げ、芸術家として成功します)。深馬が真未と向き合うことは、自身の欲望、つまり抑圧していた内面と向き合うということになります。それって、究極的な自己との対話、もしくはマスターベーションと言えないでしょうか(実際に深馬は真未とセックスをしていたわけではなくマスターベーションをしていたわけですが)。そして、芸術って、多かれ少なかれこうした自省的・自己陶酔的・オナニズム的ともいえる行為を経て生み出されるものじゃないか、そう思うのです。

 

後期のニーチェは、明確に陶酔と芸術を結びつけています。

「芸術があるためには、なんらかの美的な行為や観照があるためには、一つの生理学的前提条件が不可欠である。すなわち陶酔である。陶酔がまず機械全体の興奮を高めておかねばならない。それ以前には芸術とはならないからである」(『偶像』、「反時代的」八)とあり、陶酔を芸術を可能にする美的基本状態の地位につけていました。また、陶酔とは、「陶酔にある本質的なものは力量の高揚と充溢との感情である」とも述べています。

参考:森谷宇一. (1989). 芸術の本質と意義: ニーチェの芸術観への一展望. 待兼山論叢. 美学篇, 23, 1-23.

 

真未とのセックス(=マスターベーション)、つまり自己陶酔を経て、深馬はスランプから脱し、芸術家としての展望を開くことができたのではないかと思います。それは例えばニーチェによる「ディオニュソス的な救済」のように、生を美化せずに、醜いもの(己の中に潜む抑圧していた欲望、荒々しさや芸術的衝動、傲慢さ、性的衝動、死を思う感情)と向き合い、苦悩し、また同じ分だけ快感を得ることで、達成できたものだと考えます。性や死にむきあうことにより画家としての生がいきいきとしたものになること、深馬と真未の共作が死のモティーフ(恐竜の骨、卵の中の女、燃える花)からだんだんと命を宿していき、最後には動き出した(開眼する左目)になったのにも関係しているのではないかと思いました。

そして、真未との別れを選ぶことで、深馬の才能は閉じてしまった。そんな風に読みました。深馬が選んだのはひりつくような才能を持った真未との波乱に満ちた生活じゃなく、退屈ながらも平穏な杏奈との生活だった。だからこそ、最後に桜は散ったのだろう、と思います。

 

 

深馬の白いキャンバス

 

小説原作のこの舞台。それに備え、ひと足早くに原作を買って読んでいました。

(原作は舞台はそのままに話がまた全然違うので、ぜひ)

舞台化の良いところは、話が鮮やかな色を持って彩られていくところですね。

深馬の結局最後まで白いままのキャンバスと、色とりどり、生き生きとした真未との共作の対比が印象的でした。そして、真未との関係を始めたことで、深馬の身体中にしみ出していく鮮やかな染み。キスマークかのような首筋のピンクの跡。だんだんと黒くなっていく深馬の衣装も。

 

ところで、深馬のキャンバスは最後まで白いままで、私たちは最後まで深馬がひとりで書いた絵を見ることがありません。あのキャンバスにどういう意味があったのか。

思い出すのが、真未の登場の契機です。アトリエで杏奈とキスをしようとした深馬が物音に驚きキャンバスを倒してしまった→手に生乾きの絵の具が付く→それを見つめた深馬は高笑いをする→舞台上がプロジェクションマッピングで黒く染まっていき暗転→展覧会のシーンで真未が登場という流れだったので、おそらくあの作品に傷がついたのが真未登場の契機だったのではないかと思います。そして、真未との別れのきっかけになったのも、真未があのキャンバスを傷つけたからでした。

あのキャンバス作品は、おそらく卒業制作的なものと思われます。深馬の今までの学生生活をかけた作品であり、つまりそれはそのまま深馬のキャリアを象徴しているのではないかと考えました。今まで築き上げてきたキャリアが、一つのアクシデントでおじゃんになること。キャリアの否定。そうした失望が真未を生み、また真未を封印したのではないかと、確証は持てませんがそう感じました。

アカデミズム的な美術教育の集大成が真っ白で、美術教育を受けていない自由で才能あふれる真未との作品は色鮮やか。この対比、意地悪ですね。

 

 

モラトリアムとアイデンティティの確立

ずっと学生でいたい、その気持ち、痛いほどよくわかります。当方ただいま絶賛モラトリアム期間延長中の身につき。心理学の分野では、モラトリアム期間とは、人間が青年期においてアイデンティティを確立し、「社会の中での」自分の役割や位置づけについての自覚を見出していかなければならない時期であるといわれています。自分とは何者で、これまで/これからをどう生き、そして社会の中で自分をどう位置付けていくのか。それらの答えを葛藤しながら探し、自分は他の誰でもない自分自身であるという自信を得ることで、青年期の人間は自我を形成し、大人になります。心理学は専門外なので、適当言ってたら訂正してください。

本作を通して描かれる深馬の葛藤。他者として現れた自分の欲望との対峙。真未により今までの美術教育が否定されたこと。友人や恋人、恩師との不和により、社会的に立場が揺らいでしまったこと。それもこれも全部、深馬が「自分とは何者か」「どう生きていくか」を決め、自我を形成し社会に出る準備をするために必要な葛藤だったのではないでしょうか。しかし悲しいかな、大人になるということは、子供のころのような欲望の発露としての無邪気な芸術活動はできないということでもあるのかもしれない。それは、深馬が将来へと踏み出すために真未との決別を決めたことにも表れているのではないかなと思いました。

ちなみにJUMPの『狼青年』における自己同一性の獲得を考察したブログもあります。宣伝です。

talkinboutmygeneration.hatenablog.com

 

「ちゃんと死ぬことだって分かったんです」


スランプに悩む深馬に滝川が「何かヒントになるかもしれない」と手渡した作品集、シーレでしたね。20世紀初頭、ウィーン分離派表現主義の流れを汲んで活躍。性や死などスキャンダラスで過激な表現を怯まず盛り込んだ生々しい人物描写を追求した画家です。Wikipediaには「アカデミーの制約を離れた自由な創作を繰り広げた。」とあり、アカデミー、つまり、ある種の権威性や理性主義を離れ、優等生であることをやめ、性や死など人間の生々しさを描くことが、深馬の新たなる表現の可能性を開くだろうということが示唆されていたのではないかと考えました。

 

画像

シーレの代表作『死と乙女』

 

あとは考えすぎかもしれないですが、大きく太い柱に斜めに差し込む日の光という演出を見たときに、(めちゃくちゃモローっぽいな)と感じました。

ギュスターヴ・モローは、偶然にもシーレと同じく世紀末のヨーロッパ芸術を彩った画家です。

 

ギュスターヴ・モローの「出現」 | ムッシューPの美の探究

作品詳細|19,20世紀|作品紹介|国立西洋美術館

ギュスターヴ・モロー展 ― サロメと宿命の女たち ―」東京・大阪・福岡で、油彩など約70点が集結 - ファッションプレス

 

翻訳家・鴻巣友季子 ×「ギュスターヴ・モロー展 ―サロメと宿命の女たち―」 【スペシャリスト 鑑賞の流儀】 – 美術展ナビ

ちなみに、モローがよく好んで用いた表象に「ファム・ファタル」があります。「ファム・ファタル(宿命の女)」とは、男を破滅へと導く悪女のこと。とても魅力的に、エロティックに、そして邪悪な存在として描かれます。また、ファム・ファタルといった悪女と対立する形で、「聖女」や「太母」といったイメージで女性を描くことも。女性表象の問題としてフェミニズム分析でよく用いられる概念なので、興味のある方はお調べください(投げやり)。

従順で、無垢で、一途で、非力で、献身的で、深馬の力になろうと必死な杏奈。

天才で、自由で、激しく、魅力的で、深馬の精神を不安定にさせる真未。

2人の対立構造に、悪女と天使、ファム・ファタルと聖女・太母の対立を感じました。まじで、家父長制社会の理想を詰め込んだような杏奈のイメージも、杏奈のこと好きじゃないくせに最後は杏奈を選ぶ深馬も、胸くそでしたね。

 

ところで、モローが「ファム・ファタル」と同じく好んで描いたモティーフに「キマイラ」があります。

「キマイラ」―ギリシア神話に登場する怪物で、ライオンの頭と山羊の胴体、毒蛇の尻尾を持ちます。羊と蛇と言えば深馬と真未の初めての合作を彷彿とさせます。いろんな方の考察を読んでいたら、彼らの絵を図像学的に分析した方がいらっしゃり、なるほど!と思いました。キマイラとは、

中世のキリスト教寓意譚では、主に「淫欲」や「悪魔」といった意味付けを持って描かれた。12世紀の詩人マルボート(英語版)によれば、様々な生物の要素を併せ持つ事から女性を表すとされている。この他、ライオンの部分を「恋愛における相手への強い衝動」、山羊の部分を「速やかな恋の成就」、蛇の部分を「失望や悔恨」をそれぞれ表すとされたり、その奇妙な姿から「理解できない夢」の象徴とされた。一般には、怪物の総称や妄想、空想を表わす普通名ともなっている[3]。

であり、それらがそれぞれ深馬や真未を表していると。

ちなみに、wikiにはその後に

また、フランスの画家ギュスターヴ・モローはしばしばこの名をタイトルとしながらも、翼を持ったケンタウロスの美青年など、独自の設定を課した怪物を描く作品を手がけている。

 とありました。モローの描いた『The Chimera』は、以下のような絵になります。

 

キマイラ ギュスターブ・モロー 絵画解説

 

モローのこの絵について、Federiciらは以下のように述べています。長いですが、翻訳して引用します。

モローのキマイラの描写もまた、イデオロギー的な醜悪さといったカテゴライズに合致する。ギリシャ神話に登場するキマイラは、ライオンの身体とヤギの頭、そして蛇の頭で終わる尾を持つ怪物である。

(中略)

モロー版のキマイラは、そうした肉体的な醜さは描かれておらず、代わりにより美的に好ましい神話上の獣の姿が考案されている。このキマイラは、この作家の想像力をよく示している。モローは山羊の頭を持つライオンの代わりに、典型的な理想の男性の顔立ちを持ち、欲望と未開の象徴であるケンタウロスを登場させている。キマイラの首には、官能的かつ古典的に描かれた裸婦がまとわりついている。この物語は、人物が断崖絶壁に向かって飛び降りる瞬間という、寓話的なメッセージを示している。この若い女性の道徳的な脆弱さというのが、キマイラを抱きしめることで逃れられない破滅から目をそらそうとする行為に表されている。

引用:Images and Imagery: Frames, Borders, Limits : Interdisciplinary Perspectives - Google ブックス p55.

美しく官能的でありながら、道徳的な欠落があり、美男子を破滅へと道連れにしようとする女性が描かれています。ファム・ファタルであり、またこのしがみつく構図も、深馬にしがみつく真未を彷彿とさせたりなんかして。

 

ところでシーレとモローは、「世紀末美術」と呼ばれることもあります。

ここで世紀末美術をWikiで引くと、
「世紀末芸術(せいきまつげいじゅつ)は、1890年代から20世紀初頭にかけて、おもにヨーロッパの都市を中心に流行した諸芸術のなかで一定の傾向を示す一群のことを指す。一般に、幻想的・神秘的・退廃的な性格を有するとされる。」とあります。そして、「そうした「世紀末」芸術の特性の1つが様式における象徴主義であり、もう1つが主題における、死やエロスへのこだわりなどの特殊性であり、また、社会通念から逸脱した「退廃的」な主題やモティーフを好む傾向であった。」と。

 

作品内に直接的なモティーフが描かれているかはともかく、メメント・モリ、死やエロスといった美学による影響が少なからずありそうだな、とも思いました。

 

 

全体を通して、アカデミズムや社会的・権威的なもの、凡庸さ、安定、平和、そういったものと対比される形で真未が描かれていたのかな、と思いました。そして、芸術とは何か、自由とは何か、才能とは何か、死や性に向き合うこととは、そんなことを問いかけてくる作品だと感じました。一度見ただけではよく味わえず、何回も見てようやく深みに気付けたというのが本当のところ。アーカイブ、万歳。

いや~面白かったです!でもこれ、関ジュのちびっ子たちも見たってマジか。

 

 

役者さんの演技について


なんといっても三浦透子さんの存在感ですよ!不勉強につき存じ上げなかったのですが、今回ですっかりファンになってしまいました。第一声から舞台上を完全に支配していて、すごい役者さんだな…と。あの不気味さと脆さの両立した演技、幼さとミステリアスさの同居した雰囲気、完全に「真未」を体現していて、引き込まれてしまいました。もっとたくさんのお芝居を見てみたい。

そしてわれらが主演の正門さん。やはり彼の一番の魅力は「温度感」だなあと感じました。声もそうですが、聞いていて心地のいい深みと暖かみがある。演じている人物に体温や質量が生まれる感覚があり、舞台上に生の質感が宿るような気がします。あのちょっとねっとりとした棒読み気味の演技も、陰鬱かつ妖艶な世界観にぴったりの湿度で、いいなと思いました。激高したときとの差もぞくぞくした。特に後半、真未が自身のオルターエゴだと判明してからの、精神的にどんどんと不安定になっていくあの演技。地底から這い上がってくるようなあの声。普段穏やかな彼だけに、鬼気迫る正門良規が見られて、すごくよかったです。選ばれるべくしてキャスティングされたのだなあと思いました。松島庄汰さんも小日向星一さんも、言わずもがな岡田義徳さんも、いい俳優さんだなあ。黒崎レイナさんの初々しい演技も、杏奈というキャラクターの健気さや無垢さをよく表していて、胸が締め付けられる思いでした。キャスティングの妙を感じた舞台だったなあ。

 

 

 

 

 

THE GREATEST SHOW-NEN『おしりと御飯』感想

 


【舞台の感想】
出所をきっかけにヤクザから足を洗い、社会に適合しようと四苦八苦する主人公・義理堅木人情(ぎりがたきにんじょう)。公園でホームレスたちと交流したり、老人ホームで揉め事を起こしヘルパーに助けられたり、居酒屋で慣れないアルバイトにミスを連発したりとその過程は困難を極めるが、周囲の人との交流と生来の素直で真直な性格で挑んでいく。そんな人情の目の前に度々現れる謎の人物。夢と現実の世界、もしくは過去の記憶と現在とを撹乱するように、扉を開けて現れ、扉を閉めて去っていく。果たして人情が見ているのは夢か現か幻か。そして謎の人物の正体とは一体。

 

不思議な世界観で、終始笑いとカオスに包まれた楽しい歌喜劇でした。結局全ては人情の頭の中で起こっていたことだったのか、果たしてヒョウ柄の人物は現実のものか、それとも人情の記憶と執着から生まれたものか、真剣に理解しようとすればするほど、おふざけのような歌や芝居に笑かされ、翻弄され、何もつかめなくなる。そのはぐらかされる感じすら楽しいな〜と思ったのでした。

 

ヒョウ柄の人物とは誰か】
タイトル「おしりと御飯」は自分を捨てた母親におしりを叩かれながら白米を食べるシーンに象徴的でした。ところどころで象徴的に登場するご飯と、ヒョウ柄の謎の人物。夢と現実、意識と無意識、過去と現在、フィクションとメタフィクションが交差する難解な作品において、まるでそれを解き明かす手がかりかのように随所に置かれたそれらのポイントに、観客の意識は自然と向いていきます。

最後にヒョウ柄の人物は人情の母親であったことが発覚するのですが、それにしても、ミステリアスかつ強烈なキャラでした。このキャラからどのような意味を解釈すればいいのだろう。

思い出される人情の最古の記憶は、母親に捨てられた家族による悲しみの食卓の記憶です。母親への執着が彼の無意識のうちに存在し、しばしばそれは夢の中で謎のヒョウ柄の人物という形で発露する。ヒョウ柄の人物は母親であることが判明し、「なんで俺らを捨てた」と問う人情に対し「好い人ができた」「でもあなたたちのことはずっと愛していた」と告げる。ご飯を食べる人情に対し彼女は箸の持ち方が悪いと叱り、人情は母親におしりを叩かれながらご飯を食べる。そして舞台は振り出しに戻り、彼は改めて出所する。出所後は白米を食べる、と心に決めて。

ヒョウ柄の人物が本当に人情の母親だったのか、彼が創り出した幻想なのかはわかりません。しかし、彼は御飯を通じて悲しい過去を克服し、そして心を入れ替えて未来を生きようと決心したわけです。

ここで思い当たるのが、フロイト精神分析学における「超自我」という概念。

超自我(スーパー・エゴ)とは、文化的な内在化された規範を反映したものであり、主に、両親が子供に案内したり子供に影響を与えるために、子供に教え与えたものである。

(Wikipediaより)

ざっくり言えば、人間が欲望のまま奔放に生きることがないのは、この超自我(規範)を内面化していて、それが自分の欲求や空想や感情や行動を批評したり禁止したりするから。フロイトによれば、この超自我を自分の中に取り込むことは、親の影響を自分の中に取り込むこと、親と自分の同一視を成功するということ、だそう。通常は幼少期にエディプスコンプレックスを克服し獲得されるものであるとされるのですが、人情は幼少期に母親が不在であり、それができなかった。それが、世間知らずの元ヤクザというキャラクターに現れているのではないでしょうか。ここで思い出されるのは、謎のヒョウ柄の人物(=人情の母親)が、人情を箸の持ち方が悪いと叱りつけ、おしりを叩いていたこと。彼女は人情に世間の常識やルールに適合しろとしつけるわけです。また、母親の愛を感じることがなかった人情に「ずっと愛していた」と告げる。人情の人生に欠けていた母親からの愛としつけの埋め合わせがなされる。これにより母親との同一化=超自我の内在化を果たした彼は、晴れて大人になる。つまり、ひとりの大人になり損なった人間が、過去を克服し、超自我を内面化し、大人になる。その過程が、ヤクザものが足を洗ってカタギになるという物語のサブテーマとして描かれているのではないかと。そう感じました。

 

そういえばおしりと御飯というタイトルも、なんとなく、フロイトの心理性的発達理論における口唇期と肛門期を思わせるな~と思いました。

 

【規範と御飯】

人情は監獄からの出所をきっかけに心を入れ替え、極道という独自の規範に縛られた社会を抜け、一般社会に参入します。しかし作中では、その一般社会も規範や不条理によって支配されているものだということが生生しく描かれていました。「正しさ」が支配するはずの社会で人情を待ち受けていたのは、貧困に苦しみ社会の周縁に追いやられたホームレスとの出会い、職場内イジメ、経歴差別、居酒屋でのブラック労働などです。人情は、監獄から出所しても、そうした世間のしがらみから逃れることはできないのです。まるで社会全体がひとつの監獄であるように。

そして、私たちもまた、同じ社会の檻に収容されている囚人なのではないでしょうか。

思い出すのは、最後の看守の謎のセリフ「囚人は刑期を終えれば出所できるが、我々は一生ここから出られない」。この場合の「我々」は刑務官たちのことだと思っていたのですが、観客を含めた「我々」なのではないかと、じわじわ気付いていきました。

 

そして作中、随所に見られたのが舞台「レ・ミゼラブル」の冒頭、ジャン・バルジャンが脱獄する前の服役シーンからの引用です。冒頭の囚人番号のシーンと、ブラック居酒屋の従業員が机を引くシーン(これしか気が付かなかったんですけど、もっとあったのかも)。レ・ミゼラブルというお話も、脱獄した囚人がその後もフランス動乱の時代の荒波に揉まれ苦悩していく話でしたよね。

(そして、ジャン・バルジャンの罪は「たった一つのパンを盗んだこと」。これは関係があるのかどうかわかりませんが、ご飯と罪というつながりを感じました。)

ジャン・バルジャンが逃れることができなかった檻が、革命の時代の貧困や格差といった社会的・歴史的な檻だとすれば、人情が逃れることができない檻は「社会規範の檻」なのかもしれない…と思いました。社会の「普通」から逸脱してしまう弱者や異端なものを「逸脱」であるとして迫害・排除する社会。

だとすれば、そんな檻の中にいるとも知らず「外国」性を劣等なものと見なす人情の滑稽さが浮き彫りになるな、とも思いました。思い出すのが、人情がやたらと「白米」にこだわっていたシーンです。白米を日本の誇りであるとして特別視し、他の「外国」的なモノを徹底的に下に見ていた人情。ベトナム料理やハクビシンなど、「外来」のものを拒絶していました。そうした排外的・ナショナリズム的思考、自分たちと違うものを劣ったものであるとして蔑視し排除する思考は、しかしながら、人情自身を苦しめる社会の視線と非常に近しいものです。「元ヤクザもの」という肩書により、社会から排除される人情。そうした構造に組み込まれているも知らず、自身もまた他人を蔑視する、その愚かしさや滑稽さ。そうしたものも読み取れるのかな~ なんて思っていました。

 


調べたら劇団「マサ子の間男」が2014年にやっていた舞台だそうで、しかも本家のほうはさらに「おしり」を全面に出していたそう。本家も見たら、また解釈も違ってくるんだろうな。

 

 

【番組の感想】
終始楽しい歌喜劇でした。なんと言っても主演の小島くんが見事にハマり役だったな〜と。彼の無骨で荒削りながらもまっすぐでピカピカ光るような演技が、人情という人物にハマっていたなと感じます。不器用だが真っ直ぐで心根の優しい、しかしその正直さゆえに社会復帰に悪戦苦闘する元ヤクザと、歌が苦手なりに模索しながら主役を演じる小島くんが重なり、見終わる頃には人情頑張れ!という気持ちに。あとは、社会の中のヤクザものという違和感が醸しだすおかしみと、ジャニーズという集団の中で「変人」と評され愛される小島くんの立ち位置も妙に重なりません?愛すべき違和。元ヤクザとか、カタギじゃない硬派な役、もっとやってほしいな!
今回だけでなくこのグレショーを通して思うのは、小島くんの演技が心にまっすぐ届いてきてとても好ましいものだなということと、彼は本当に舞台映えする、華のある人だなということです。高い身長や長い手足、はっきりとした顔立ち、ゆったりとした動き、そして妙に目が離せなくなるちょっとした違和感。そういえば青木さんちでも、小島くんばっかり見てました。きっと役者としてこれからどんどん良くなるのだろうなと思うと本当に楽しみです。

小島、福本両者は「歌が苦手」ということで、歌喜劇というジャンルに挑戦するには苦労もあっただろうけど、終わったあとに「楽しかった」「成長できた」「歌喜劇を選んでよかった」と晴れやかな顔で口々に言っていて本当に良かったね〜となりました。私はAぇ最大の強みのひとつは歌声の豊かさにあると思ってて、小島福本両氏の歌声も大好きなので、今回の稽古を通じて少しでも苦手意識に変化が生じたのなら素敵だな…と思ったのでした。そんで本当にふたりともぐんと上手くなってたし。とくにたいちぇの高音の伸び、音のハマり具合が全然違う!KWANIさん最高です。


福本くんの純真な好青年ヘルパー役もはまってたな。彼は全てのことに対して日々地道ながら着実にレベルアップしていて、こんなに応援しがいのあるアイドルもいないだろうと常々思っています。仕事と学業の両立はただでさえ大変だろうに。歌もだけど、お芝居も見るたびに生き生きとしたものになってきていて、これを目撃しているのはファン冥利に尽きるな感じるのでした。改めてグレショー、最高の番組だな。

 

そして正門さんの色気のある演技!今回はボレロに合わせて踊るヒョウ柄の服に身を包んだイモータン・ジョーみたいな謎の人物役。こんなにアクが強い役なのに、正門さんが喋ると湿っぽく、色っぽい。初登場時の「しょーもない」「帰れ」、ゾクッとしたな。声を張り上げているわけじゃないのにぐっと惹き込まれるつぶやきに胸をわしづかまれました。

 

そしてこの舞台の縁の下の力持ち、佐野くん末澤さんリチャくん、そして高木さん。リチャ末佐野3人は器用であるがゆえにフォーカスの当たる回はなかったけれども、技術的に本当にすごいことをオールマイティにさらっとやりのけていて、本当にすごい(語彙…)。普段からこの3人は何にでも高得点をしれっと出す人々ではあるけれど、今回みたいな複数の役をこなす劇だとより一層それを感じました。3人ともコメディが上手いこと上手いこと。特に末澤さんのコミカルな演技が大好きなんです。嫌味なヘルパーの上司とか最高でしたね。嫌味で尊大な小物役の演技をさらっとこなせるジャニーズがどれだけいるんだよって話ですよ。リチャくんもつくづく芸達者だな〜と思います。自販機をあんなにダンディーにキュートにこなせる人いる?全部全部良かったんだけど、とくに冒頭の刑務所のシーン、リチャ末の掛け合いが最高でした。なんとあれリチャくんのアドリブということで、コメディの天才なの?(本番になると「楽しくなっちゃって」アドリブが増えたということで、この生粋のエンターテイナーめ…舞台の上に立つために生まれてきたのかよ…強心臓…と思いました)素人なりの浅い所感なんですが、コメディってテンポ感が大事なイメージがあり、そうした間合いが軽快であるほど面白いと思ってて。そこへ冒頭のリチャ末シーン、テンポ感が天才だしふたりの息もぴったりだしでめちゃくちゃ面白かったです。この器用で舞台映えするオールマイティな最強カードがグループに3枚揃っているって凄くないですか?勝ち確?
あとは3人の歌声。人情出所時の見送りシーン、ハクビシンの歌、めちゃくちゃ綺麗なハーモニーに終始うっとりしていました。特に佐野くんの高音と、リチャくんのバリトン!リチャくんの!バリトン!!プロのお墨付きということで、どうか本格的にアカペラに挑戦してくれないかな………。

 

 

今回も裏側含めて本当に楽しい楽しい鑑賞体験をありがとうグレショー。つくづく素晴らしい番組です。次の舞台も楽しみ!

 

 

あけおめコンサート20☓☓~関ジュにHello!~ in大阪城ホール

 

 

※この記事は、20☓☓年の年始に(ハロプロとAぇ! groupのオタクである私の脳内で)開催された関西ジャニーズJr.のハロプロ曲カバーコンサート「あけおめコンサート20☓☓~関ジュにHello!~ in大阪城ホール」のセトリをレポートするものであり、完全なる創作物です

 

前回の記事

 

talkinboutmygeneration.hatenablog.com

 

 

 

オープニング

1.そうだ!We're Alive/モーニング娘。(全員)

youtu.be

「幸せになりたい あなたを守ってあげたい」って歌詞が本当に大好き。

黄金期の多好感に満ちた元気いっぱいのMVももちろん最高なんですけど、伝説のライブ「ライサバ」こと「モーニング娘。コンサートツアー2010秋~ライバル サバイバル~」の映像も最強なので見てほしい。

 

2.念には念(念入り ver.)/こぶしファクトリー(全員)

youtu.be

こぶしファクトリーとか、ほぼ関ジュですからね(?)

気を抜くとセトリ全部こぶしになりそうで困りました。

正門小島リチャ當間のドスの利いた声が最高に映える。

末澤ソロ「忘れんなアンブレラ」が「手洗いうがい忘れんな」になっててさすがでしたね。

3.アジアンセレブレイション/Berryz工房(全員)

youtu.be

WESTの曲です!と言っても差し支えないほどのお祭り感。

ジュリアナ並みにペンラ振り回して踊りまくりたいです。

みやびちゃんのゴキゲンな煽りは丈リチャ。途中でユニット紹介も入ります。レッツハバグッターイ!

 

4.ロックの聖地/Buono!(バンドver.)(Aぇ! group)

youtu.be

気持ちは10代のままの6人の大人のオトコが今夜響かせるド根性のロックンロールミュージック。ホンモノを見せつけてほしい。

AぇとBuono!は合う曲が多すぎて選べないので、一枚まるまるカバーアルバムでも出してくれないかなあ。ロックの神様も、泣き虫少年も、Independent girlも全部聴きたい。

 

5.懸命ブルース/こぶしファクトリー(バンドver.)(Aぇ! group)

youtu.be

歌唱力お化け集団こぶしファクトリーの曲を同じく歌唱力集団Aぇのカバーで、

そしてベースラインもギターソロもめちゃくちゃかっこいいこの曲をバンドバージョンで観たかった。

正門、リチャ、小島の低音のドスの利いたがなりが最っっっ高でしたね。。。

来年度はぜひGO TO THE TOP!!をよろしくお願いします。

(上記リンク時間指定してあります。)

6.Fiesta! Fiesta!/Juice=Juice(Aぇ! group)

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誰しも一度は想像したことがあるであろう「Fiesta! Fiesta!を歌うAぇが見たい」「末澤さんによって情熱を解き放たれたい」「正門くんってかなともだよね」「間奏のダンスソロでリチャくんのしなやかさと小島の足の長さにノックダウンされたい」がついに実現するなんてね…

 

7.カクゴして!/アンジュルム(Lil かんさい)

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嶋﨑「君の声聞かせて」西村「愛しちゃってんじゃないの~!」で会場のボルテージは最高潮に!!!!俺の斗亜ちゃん!!!!!

8.ヤッタルチャンスマイレージ(Lil かんさい)

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はい優勝~~

かななん(拡声器持ってる子)は岡崎彪太郎さんでよろしくお願いします。

9.彼女になりたいっ!!!/ハロプロ研修生(Boys be)

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ピョコピョコウルトラと迷いに迷いましたが、どうしてもボイビのみんなにイチゴのベッドで寝てほしかったのでこっちにしました。ステージ袖から満面の笑みを浮かべる西畑さんが見切れていて、会場からはちらほら悲鳴が上がっていました。あちゅ、逃げて。

10.ビタミンME/BEYOOOOONDS(なにわ男子)

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とっておきのビタミン摂取してめちゃくちゃ元気になっちゃった。

「私には可能性がつまってるんだぞいっ!」はりゅちぇです、もちろん。

みいみ!コールはみっちー!コールに。楽しい~

11.ふわり、恋時計/つばきファクトリー(なにわ男子)

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Aぇがこぶしならなにわはつばき。

12.青春コレクションモーニング娘。(なにわ男子)

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限りある青春のきらめきとか切なさとか仲間の大切さとかそういうのをギュギュっと凝縮した淡く光る宝石みたいな曲。なにわちゃんに歌われたら泣いちゃう。

 

13.大器晩成/アンジュルム(全員)

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関ジュ群舞。

大器晩成だの焼け野原だのごちゃごちゃ言う外野など放っておいて、是が非でもチャンスをものにして「今」関ジュの強さを証明してやってくれ~~~

西畑「何にも惑わされずに」嶋﨑「どんな時代にも流されずに」で受け継がれていく伝統を目にして胸が熱くなります。

 

14.恋愛ハンターモーニング娘。(全員)

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「抜け駆けしてでものし上がる気がないなら明日はない」ってすごいパンチラインじゃないですか?戦隊モノオールスターズ並みに闘志を放つ戦闘集団関西ジャニーズJr.にノックアウトされたい。

 

15.Next is you!/NEXT YOU(関ジュ)

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ゴリゴリに踊って魅せてくれ~

福井「どの子もみんなライバル」吉川「日本の中で何となくやってそれでいいのかい」岡「ふくらはぎバリ筋肉って努力の証だい」が聴きたいのでフルコーラスで歌ってください。

次は君らだよ。

 

メンカラメドレー

16.初恋サイダーBuono!(西畑・末澤・嶋﨑)

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直球ど真ん中!王道アイドルソング!が聴きたかった。

嗣永→西畑、夏焼→末澤、鈴木→嶋﨑 でよろしくお願いします。

 

17.TOKYOグライダー/Juice=Juice(長尾・草間・岡崎)

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あけおめの「無鉄砲ボーイ」、めちゃくちゃお洒落で軽快で最高でしたね。

こちらも最高にお洒落、ちょっとアダルト。

リチャくん、無双してくれ。

18.恋をしちゃいました!タンポポ(福本・流星)

幻覚で萌え死にそうになった。あぶねぇ~

りゅちぇ「どうなるんですかぁ~?」あざとすぎ。悪い、悪かった、有罪。

19.♡桃色片想い♡/松浦亜弥(道枝)

見たい!!!!みっちーの♡桃色片想い♡、見たい!!!!

Bメロのみっちーコールで声帯が潰れた。

 

20.LOVE LIKE CRAZY/後浦なつみ(大橋・佐野・當間)

才能×3の強いメンカラグリーンは、伝説の3人ユニット後浦なつみ(後藤真希安倍なつみ松浦亜弥)のこの曲。見なくてもわかる、「強い」やつや…。

大橋くんのフェイク、佐野晶哉の多角でのびやかな声が最高なのはもちろんなんですけど、るくちゃんの低音ラップ、マジでかっこよくないですか?将来有望でしかない。

 

21.メロディーズ/GAM(高橋・小島・風雅)

R18だけど行けそう?大丈夫?

 

22.大きい瞳/モーニング娘。6期(田中・道重・亀井)(藤原・正門・西村)

お察しのとおり、田中→藤原、道重→西村、亀井→正門です。

 

シャッフル

欲望に身を任せて考えたらこうなりました。

23.GET UP! ラッパー/SALT5(草間・福本・當間・岡・井上)

24.印象派 ルノアールのように/エレジーズ(西畑・大橋・佐野・福井)

25.ラッキーチャチャチャ!/ミニモニ。(長尾・末澤・嶋﨑・西村)

26.ガタメキラ/太陽とシスコムーン(高橋・正門・小島・岡崎・澤田)

27.愛はまるで静電気/℃-ute(藤原・流星・道枝・風雅)

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28.BRAND NEW MORNING/モーニング娘。'17(全員)

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西畑「ねえいつかはあの頃みたいに笑いあえるの」

大西「ねえ信じて思い描いてる未来のほうが」の歌割でお願いします…

 

29.この地球の平和を本気で願ってるんだよ!モーニング娘。(全員)

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関ジュに世界平和を祈られちゃあ、平和になるしかないっすよね

 

挨拶

30.でっかい宇宙に愛がある/モーニング娘。(全員)

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 無条件で泣いてしまうアンセム

 

アンコール

 

31.伸びしろ~Beyond the world~/BEYOOOOONDS(全員)

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 コロナ禍で聴いてボロ泣きしてしまった曲。デビュー二年目、思うように活動できなかった彼女たちもいろいろ思うところがあっただろうに、それを見せないほど明るく元気にキラキラとパフォーマンスする姿に胸がいっぱいになりました。アイドルオタクじゃなくてもいいので、すべての頑張る人に聴いてほしい一曲。

 

 

感想

ハロプロも関ジュも最高!!兼オタ最高!!

シャッフルメドレーは全員うまい具合に組み込むのが難しくて、そりゃ本家関ジュコンも謎の数合わせ青春アミーゴ持ってくるしかないよなあと思いました。

あとハロステもアプカミも検索しにくさが異常。アップフロントはもうちょっとどうにかしろ~!無断転載が一番上に出てくるってどういうことよ~!そういうとこ~~!!

 

 

セトリ