THE GREATEST SHOW-NEN『一番のサンキュウ!』感想

 

 

放送終了後一か月近くたっておりますが、ようやくまとまった時間がとれたので感想を。

 

今回のTHE GREATEST-SHOW-NENは、劇団「空晴」座長の岡部尚子さん脚本・演出の『一番のサンキュウ!』。

 

前回の『銀河鉄道の夜』が動的で、鑑賞している自身の身体が踊り出すような感動を覚えたのとは対照的に、今回の『一番のサンキュウ!』は身体にじんわりと染み渡るようなあたたかな感動をもたらしてくれた作品でした。

 

まずなんといっても惹きつけられたのは、魅力的なキャラクターたち。

「誰が欠けても成立しないような物語」とは演出の岡部さんの言葉ですが、まさにその通りで、一番セリフの少ないカワタでさえも物語の上でキーパーソンになっており、1人1人に対して愛着のようなものが湧く舞台だったなあと思います。基本的にみんな優しいんですよね。

彼らがタイキくんとの関わりを通して何かを感じ、そして変化していく過程がコミカルに優しく描かれていて、笑いながらも深く考え込んでしまうような、そして最後にはじんわりと幸福感が染み渡るような作品でした。

 

仕事している姉に甥っ子の迎えを頼まれていたのにも関わらず、自分の複雑な気持ちにけりがつけられずそれを無視していたリク。赤ちゃんが泣くのは「迷惑」で年の離れたきょうだいは「恥ずかしい」…など、赤ちゃんに対し人一倍手厳しいキャラクター。タイキくんを預かることになったときの、あの迷惑そうな顔も忘れられません。

そんなリクの凝り固まった心が、マツモトさんの一件があり、タイキくんを本物の赤ちゃんとして接していくことで、緩やかに溶けていくのがわかり、とても暖かな気持ちになりました。甥っ子に対する思いまでもがリクの中で変わっていくのを見て、この成長をさぞかしお姉さまもお喜びになるだろう…と胸アツに。

そうした微妙な心の機微を見事に表現していた末澤さんの絶妙な演技といったら。タイキくんをはじめて抱いた場面の、ハッとしたような心の変化の表現が見事だなあと思いました。あとはなんと言っても笑顔。末澤さんの笑顔ってたまらなくかわいいし、一気にその場の空気を融解させてしまう何かがあるんですよね。

 

6人兄弟の長子として育ち、幼少期からきょうだいたちの面倒を見てきたソラオ。いわゆるヤングケアラーとして幼いころから大変だったはずです。彼の手慣れた赤ちゃんの扱い方を見るたびに、切ない気持ちになりました。そんな境遇で育っても、他者(とくに、なにか弱い部分を抱えたひと)への想像力があるソラオ、本当にやさしい人なんでしょうね。

そしてソラオ役の演技、今までの佐野くんの演技で一番好きかもしれないです。わりとテンションが高めでお話のアクセントになるような役が多めの印象だったんですけど、今回の優しくて柔らかい演技は普段の佐野くんの穏やかさならではのものだったのではないかと思っています。

ハヤシも優しくて、そしてなんだかいうことに深みがあるような、勝手に深みが出てきてしまうようなキャラクターだなと思いました。こじけんじゃん。

小島くんのあの小細工しないまっすぐな演技で発される言葉って、そのまま見ている者の胸にまっすぐ届くんですよね。

 

ウミノのキャラクターはとにかく軽薄でお調子者。友人の「できちゃった」話を野次馬的に面白がったり、女性と親しいハヤシをからかったりと、「あ~いるよねこういう男子」と思いながら見ていました。その一方で、タイキくんをすんなり受け入れるノリの良さだったり、マツモトさんの吉報に心の底からお祝いを送っていたり、幼馴染のために能をこっそり練習していたりと、絵にかいたような「憎めない良いヤツ」の側面も。マツモトさんにお祝いを伝えるときの「ぜんぶ、ぜ~んぶ、おめでとうございます!」の言葉が本当にまっすぐで、泣きました。

それにしても、ウミノは幼馴染に対して恋愛感情を抱いていたのか?というところはひとつ争点になりそうです。それまでのウミノのセリフ、「ちゃんと伝えずに」大切な人を失って「後悔」した経験があったり、人の彼女の話題は嬉々としていじるくせに自分の彼女の話題に触れるのはタブーだったり…といった態度からは、幼馴染のことが好きだった?と思うのですが。ただ、性別を明かさないまま「あいつ」「幼馴染」「夢を追う」等の情報のみで男性を想起させた一方で、「吹奏楽」「クラリネット」といった情報で女性なのでは?とおもわせる。こうした観客のジェンダーバイアスを試すような脚本的に、「女の幼馴染には恋愛感情を抱くにきまっているし、結婚式に出るのなんて辛いにきまってる」というバイアスを喚起している?と思わざるを得ません。福本くんの演技も、同情されている理由が本気でわからないといった感じでしたし。受け取る人によって解釈が別れそうですね。

 

みんなから便利に扱われたり、「マザコン」呼ばわりされていたり、若干キモ疎ましがられているという、なにかと不憫なポジションのヤマダ。

個人的に一番共感できないキャラクターだったなあと思います。特に、お母さんの様子を見に行ったハヤシの優しさを「母性」としたり、「赤ちゃんいらんとか思うわけない」と言えてしまったり、育児疲れや育児放棄といった事象にとても厳しく批判的な目を向けていたりと、母性信仰強めなところ。お母さんは赤ちゃんを愛するということは「当然」のことで、赤ちゃんをかわいがるという感情は「母性」によるもの。赤ちゃんを愛せない母親なんているはずないが、いたとしたらそれは母親「失格」である-とでも言いたげじゃないですか。「母性」の神聖化だったり絶対視だったり、ネグレクトは別の世界のことと断絶してしまうことにこそ、育児放棄や幼児虐待などの社会問題の目につながる問題があると思うんですよね。後ほど詳しく記述しますが。なので…もしかしたらこの作品のメッセージはヤマダの「実際信じられへんような親もおるよ。でもあんな酷いの一部やねん、ごくごく一部。そうじゃない人がほとんどや。」にあるのだとしたら…私は共感できないなと思いながら見ていました。目を背けたくなるような酷い事件も、日常との連続体にある。「酷い親」も、一年前までは「良い親」だったかもしれない。酷いものは酷いのだと本質主義的に考えたくないからです。タイキくんを「赤ちゃんとして」預かりたいと提案したり、「なんでいいことは報道されないのか」と憤ったり…そうしたロマンチスト的一面は美しい美徳でもあるけれど、他者や世界に対して理想主義的に働くこともあるな、とおもいました。 

という感じでお母さんに対しては幻想を抱きすぎなところのあるヤマダでしたが、同時に、タイキくんはじめ、赤ちゃんに対しては底なしの共感と慈しみを寄せていました。幼くして亡くなった自身の弟への思いがそうさせるのでしょうか。ソラオのおむつ替えもミルク授乳も人一倍熱心に見ていて、もしかしたら弟がいたらやりたかったことなのかもしれないな、と思うと切ない。

しかしリチャードくんの演技は安定感があって安心してみることができますよね。こんな風に自担としてではなくちゃんと登場人物として嫌うことができるというのも、「こういう人です」ということが演技として提示されているがゆえのことだよなあと個人的には思います。すこし仰々しく思える演技も、ヤマダの疎ましさによく合っていると感じました。そして朗読劇の部分は、さすがJr.大賞の「声優をやってほしい」部門に立候補しているだけあって、深みがあって落ち着く良い声。みっちり指導されてたっぽい赤ちゃんの抱き方もめちゃくちゃ様になっていて、聖母子像か何かかと錯覚してしまうほどでした。

 

そして、作中を通していちばん心情の変化が見られたカワタ。彼女が妊娠していなかったと聞いて喜んでしまったのは物語以前のカワタでしたが、タイキくんと出会った当初も赤ちゃんという未知の生命体に怯え、距離をとっていました。命に対して責任を持つことにたいして怯えていた無責任なカワタは、しかし、最終的にはタイキくんを抱っこします。よくやった。

それにしても、私はつくづく正門さんの荒めの演技が好きです。カワタにはちょっぴり雑で思いやりのないところがあるというのが、冒頭の物置部屋を漁るシーンですでにわかる、あのニュアンスの出し方というか。私は正門さんのたまに見えるダークな部分…突っ込みの語彙が物騒だったり横暴だったり…がとても好きなので、演技の上で彼のそうした部分が引き出されているのを見ると、そうそう!と膝を打ちたくなってしまうような痛快さを覚えるのです。(染、色はいい舞台だったな~)

 

あと、演劇の鑑賞の仕方として適当かというのはわからないのですが、キャラクターや脚本が当て書きということで、演じている本人のキャラクターと、舞台上の物語の中のキャラクターが重なって見えるのも、ファンならではの鑑賞体験だなあと感じ面白かったです。面白いお話はやはり人間の描写が豊かなものだと思うし、その豊かさは作り手さんの確かな観察眼に基づくんだろうな。個人的には、リチャードくんに当て書きされたキャラが「声小さいねん」「もっと出していけよ存在感」って言われる役で良かったなと思いました。

 

あとは、作中では一切しゃべらないけれど、タイキくんとマツモトさん。わが子を失ったマツモトさんの悲しみを癒すために用意されたリボーンドールであるタイキくん。はじめはただの人形だった舞台上のタイキくんが、6人に「赤ちゃん」として扱われることで、彼らだけではなく私の目にも命が宿っているように見えだすという、不思議な鑑賞体験でした。そして、タイキくんを「赤ちゃん」として扱うほどに、タイキくんが「赤ちゃん」でないことをまざまざと思い知らされ、赤ちゃんではないタイキくんとともにいたマツモトさんの気持ちはいかほどのものだっただろうと考えてしまうのです。だからこそ、第二子を授かった喜びによりタイキくんのことを忘れてしまったマツモトさんに対して、複雑な感情を抱いてしまったり。とても喜ばしいことだけど、ちょっぴり切なくもあります。

子供を亡くした母親がわが子の代わりにリボーンドールに癒しを求めることについては、賛否あるようです。それでも、「(子どもを失ったという)認めたくない現実に、個々人のペースで徐々に慣れていくことができます。移行期を支える手段としてこうした人形を使うことは、その期間が長すぎない限り、健全なことです」と述べる医師もいます。お母さんが悲しみの淵から立ち上がり、また幸せになるための移行期を支えるためのリボーンドール。きっと、日常だって同じように、悲しいことと楽しいことの連続体なのだと思います。もう立ち直れないのではないかと思うほど悲しいことが起きた後でも、移行期を経て、いずれ流れがゆっくりと良い方向に進んでいくという希望がある。そう思います。

(引用)リアルな赤ちゃん人形、わが子失った母親に静かなブーム 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News

 

 

そして、この作品のテーマである「育児」。最近個人的にケアの倫理と男性性について関心があるので、非常に興味深いテーマでした。

 

物語の舞台となるのは主に6人が働く会社の男子社員寮。

冒頭、カワタの口から発せられた「なんで男子社員寮に(赤ちゃんが)?」

非常にシンプルな問いですが、結構本質的だとも思いました。男性社会である男子寮に赤ちゃんがいるのは圧倒的「違和感」なんですよね。もし登場人物が全員女性の女子寮での出来事だとしたら、驚きはするもののもっと違った反応になっていたはず。

こうした違和感はどこから来るのか。「育児」というテーマから母親以外が疎外され、逆に母親は割り当てられた「育児」というミッションを一人で背負うことを強いられてしまうという状況はどこから来るのか。社会学者の多賀太によると、戦後日本社会では「サラリーマン的働き方」が男性の働き方・生き方の理想または標準とみなされ、またそうした期待が多くの男性に内面化されていったといいます。「サラリーマン的働き方」とは一家の稼ぎ手になる責任を負い、仕事において卓越し、職場が要請すれば残業でも赴任でもするなど職場に私生活を従属させ、そうした働き方を通じた出世競争に身を投じる、という働き方。しかし男性のそうした働き方は、家事や育児や介護などケアを一手に引き受けてくれる伴侶の女性ありきで成立してきました。戦後日本社会の経済発展は、男性に「サラリーマン的働き方」を求め、女性にケアの役割を一手に引き受ることを求めるという、性別役割分業の上に成り立ってきたということが言えるようです。

参考:多賀太(2018)「男性労働に関する社会意識の持続と変容 ─サラリーマン的働き方の標準性をめぐって」(以下、論文のPDF)

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2018/10/pdf/004-014.pdf

性別役割分業のもとでを語るうえで、「サラリーマン」はひとつのキーワードとなる。そう考えると、この舞台のテーマの一つが「育児」で、登場人物がみんなサラリーマンだというのは、非常に象徴的だなと思いました。

 

6人の住む社員寮は、「育児」が排斥された男性社会を象徴するものだと考えられると思います。

例えば、ウミノの「(子供は)好きとか嫌いとかの対象外、今はまだ」といったセリフ、カワタの「できちゃった」話を危機一髪の笑い話にして茶化すような雰囲気、女性と話すことに慣れているというハヤシをからかうような関係性…そんな風に、「できてなかった」で安心できたり、それを茶化せたり、赤ちゃんを預けた母親のみを責めることのできる、命に対し無責任でいられた立場の男性たち。彼らが、突如「育児」に向き合わざるを得なくなり、その男性の世界に「突然」現れた「赤ちゃん」に対して、「驚き」や「恐怖」の反応を示す…

そのまま、現実の社会問題を反映した象徴的な反応だな、と思いました。

出産・育児とは誰もが通る普遍のテーマ。どんな人にも赤ちゃんだったときがあり、また人生のどこかで親になる可能性があり、また親にならずとも、親せきや近所、社会において誰かの育児をサポートする側になり得ます。

そんな風に誰もが経験するはずの育児なのに、育児を母親以外にとっては「他人事」だと見なし、母親にばかり責任を押し付ける社会においては、母親の孤立が進み、中には重圧にまいってしまう人もいるでしょう。それが、マツモトさんがタイキくんを預けていった時のリクやヤマダの反応にも如実に表れていました。育児放棄に至ってしまうまで追い詰められてしまう母親もいるということに対して共感が至らなかったり、はたまた母親が育児の上で知り合いを頼ることにたいして「ないよな、いくら知り合いやからって赤ちゃん預ける?ないわ」という強い語気で責めたり。個人的には、「良い母親」と育児放棄をするような「悪い母親」に分断はできないし、されるべきではないと思っています。子供を愛する母親も子供を愛せない母親も地続きだし、ちょっとしたこと…たとえば支援の欠如や孤立…などでそうならざるを得ないこともある。「悪い母親」が「悪い」のはその母親の性質によるものだ、育児放棄はそうした悪い世界の話だ、という風に断絶した見方をしていては、身近な人の苦悩に気が付けないことだってあります。母親を「母性」とかいう言葉でがんじがらめにして孤立させ、孤立する母親に手を差し伸べず、そんなんだから出生率も低下の一途をたどりますわ!…とは、現実世界の話ですが。でも、現実社会においても、ハヤシのいうように「知らん、わからんで終わるのはしょうもない」というスタンスを大事に、誰かの負担に想像を巡らせて手を差し伸べられる心持でいたいし、そうした社会にしていかなければならないな~と思ったのでした。

 

でも、(人形ということを知らなかったウミノ、ハヤシ、カワタは)タイキくんを一晩放置していたことにたいして本当に焦っていたし、育児放棄に怒るヤマダだって、タイキくんを預ける松本さんに憤っていたリクだって、みんな赤ちゃんが大切で、大事にしないといけないものだということはわかっているんですよね。

そんな風に、赤ちゃんに向けられた慈愛の視線が大きければ大きいほどに、母親に向けられる非情な視線が浮き彫りになって、やりきれなくなってしまうのです。

 

それにしても、「育児」から疎外されている男性がそれにどう向き合い、どう変わっていくのか。そんな物語を、日本でも指折りの大きな男性団体であるジャニーズに所属するタレントが演じる、というのも、皮肉で面白い組み合わせですよね。既婚のジャニーズタレントが公の場で自身の育児について語ることは長らくタブー視されてきました。今もなお。初回放送時、福本くんは「社会的なテーマが盛り込まれているので、それにどう対応していくかも課題」と言っていましたが、それぞれにどう感じたのか、みんなにも聞いていたいなと思ったり。偶然にしろ意図的にしろ、結果として主なファン層である若い女性たちも育児について考えることとなる。とてもよいことだなと思いました。

 

 

世阿弥はこの能を、「古今集」仮名序の「高砂、住の江の松も、相生の様に覚え」という一節を題材として作出しました。「播州高砂、摂津の国住吉と、国を隔てて住みながらも、夫婦として暮らす老人老女」という人物設定で、長寿や老夫婦の睦まじさを称えるとともに、松の長生のめでたさを和歌の道の久しい繁栄になぞらえ、美しい詞章と、清々しい所作、舞いとで、傑出した表現を創り上げたのです。

能・演目事典:高砂:あらすじ・みどころ

そして最後に挿入される、高砂のシーン。ウミノは結婚する幼馴染にめでたい曲「高砂」を送ろうと、日々隠れて練習していました。高砂は結婚式でもよく演奏されることから主題が夫婦仲だと思われがちなのだそうですが、それだけでなく、和歌の道の末永い繁栄を祝う歌だということです。親に言われて音楽の道をあきらめてしまった幼馴染に、彼女の奏でる音楽が大好きで大切なウミノが送る曲として高砂が選ばれたことに、ジ~ンときました。

 

こうして普通の演劇の中に朗読劇や能を接合してみたりと、時間軸や空間軸を自在にパッチワークするようなお話の作りに、舞台の可能性って本当に無限なんだなと改めて感じました。この番組を通して、その広がりを毎週毎週感じることができ、一介の舞台好きとしても楽しいです。

 

 

暖かくも、ひそやかな気づきがある物語でした。ほっこりとした気持ちで鑑賞しながらも、非情な現実の端々が埋め込まれていたりして、小さく唸って考え込んでしまったり。日常はきっと悲しいことと楽しいことの連続体で、もう立ち直れないのではないかと思うほど悲しいことが起きた後でも良い方向にいくこともあれば、濁流のように流れてくる出来事の中で喜ばしいニュースが悲しいニュースに埋もれてしまったりもする。そんな日常の中で見逃されがちな目出たいことを拾い上げて、祝うということ。悲しみの日々の中で訪れた誰かの幸せに心の底から「おめでとう」をいうこと。ヤマダは「気持ちいいなあ、おめでとうって!」って言ってましたが、ほんとうにそうです。いつの時代も、祝いが紡がれますように、そんな祈りにも似た気持ちになった鑑賞体験でした。

 

今回の作品も本当に面白くて、改めてグレショーのある日々に感謝です。次回も楽しみ!