THE GREATEST SHOW-NEN『銀河鉄道の夜』感想

 

 

「身体のかかえる言語化(意識化)不可能なものが、私たちの生存の少なからぬ部分を根拠づけている。」(兵頭 2004)

 

 

 

「この身一つで」

嵐・二宮和也さんのジャニーズ論に、「普通の男の子たちがある一定の条件を満たすと神格化する、(コンサートは)その条件の一つ」という言葉があります。

 

「普通の男の子」に舞台装置や衣装、楽曲、観客といった、あらゆる人の手が加えられることによって、舞台の上の「神」として絶対的な存在になる。

しかし、ひとたびステージを降りたタレントたちはまるで本当に「普通の男の子」のように気さくで等身大で、それが私たちに親近感を覚えさせる。(もちろん、スターである時点で「身近」でも「普通の男の子」でもないのだけれど、画面の前の私たちにそう思わせる力がある)

ステージ上で歌って踊る「神」としてのジャニーズは、作曲家、演出家、照明、衣装、マネージャー、コンサートスタッフ…といった多くの人々の手によって集団的に作り上げられる、いわば総合芸術作品のようなものだなあと。

そうして、丸ごとが「神」を創出するためにあつらえられた特別な空間に参入することで、非現実的な異空間にトリップすることができる。

 

…おおむねそんな風に理解しています。ジャニーズの本質をついているなと思い、個人的に大好きな言葉です。

 

そうした私の思うジャニーズの精神と、今回の劇団鹿殺し×劇団タンクトップス『銀河鉄道の夜』のコンセプト「身一つでどこまで演劇を楽しめることに集中した作品を」は、ある種対立するものではないかと思いました。

そしてそれは、「あえて」選ばれたものではないかな、とも。

 

それは、劇団鹿殺しのザ・ショルダーパッズ版による「銀河鉄道の夜」のダイジェスト版を見ると、より鮮明に感じます。

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肩パッドを二枚ぬい合わせただけの、前張りに近い衣装。

限りなく生まれたままの姿に近い演者の身体です。

 

一方の劇団タンクトップス(Aぇ! groupと劇団鹿殺しの長瀬絹也、前川ゆうによる)に与えられた格好は、その名の通り黒のレザーのホットパンツとタンクトップ、サスペンダー、そしてなぜか蝶ネクタイ。

おそらく、テレビとジャニーズ的な都合でこのような変更が行われたのだろうと考えています。

それにしても、平素はスワロフスキーやファーをふんだんに使用した何キロもあるステージ衣装を纏うこともあるジャニーズタレントにしては、これ以上にないほどに生身の身体に近い格好ではないでしょうか。


露出が多く、一見すると滑稽でおかしな衣装。全5回あるうちの初回放送が終わった週には、衣装に対する戸惑いの反応や、からかいの反応が多くみられたことを覚えています。

 

そうした、カッコイイの舞台装置が使えない状態でやる演劇作品を、ジャニーズJr.の番組に選ばれたことに対し、ある種の「意図」のようなものを感じました。

 

稽古の映像で、演出家・菜月チョビさんが繰り返しおっしゃっていたこと。それは、「小道具とか衣装とか舞台美術とか豪勢なことをしない状態で」「かっこいい衣装に頼れない状態で」「自分の身体に価値があることを示して」ということでした。

 

この舞台で観客の目の前に提示されるのは、高いスワロフスキーもファーもない、簡素でシンプルな身体です。いわば、観客と同じ「人間」の身体だと思うのですが、しかしそこには絶対に超えられない壁がある。見る者と見られる者が混ざり合わない、絶対的な壁。

その役者と観客を隔てるものこそ、「お金を払う価値がある」ほどに高められたパワーや技術、作品として、劇団としての完成度なのだと感じました。

「普通の男の子」にかっこいい衣装や舞台装置で肉付けをしていくのではなく、無駄なものがそぎ落とされた生身の身体に価値がある、価値を持たせるのだという感覚。

それは、稽古によって極限まで洗練された舞台に対するみなぎる自信と、観客には決して真似できないというプライドを持って、お金を払う価値のあるものを身一つで提供する美学なのかな、と思いました。

 

「人間の強さだけで作る作品なので、皆さんの体を通してやっていただけたら」

 ―菜月チョビ

 

そんな美学を感じつつ、この作品ではとにかく、演者の身体表現にやられました。

 

菜月さんが一番大事だとおっしゃっていたオープニングのシーンは、とにかく圧巻でした。特に胸打たれたのは、末澤さんと佐野くんが身体を交差させ、髪を撫でつけるようにして胸を張るところ。二人のまなざしに籠った熱量と、全身にみなぎるエネルギー!目が釘付けになってしまいました。このふたりの所作はとてもきれいで、本当に舞台映えしますね。

 

男闘呼組『TIME ZONE』に合わせてみんなが踊る姿は群舞とも呼ぶべき力強さで、観ている私の手足にまでも力がみなぎってくるような感覚を覚えました。それは、コロナ禍の長引く自粛生活で次第にあいまいになっていった自分の身体感覚を取り戻すようでもあり、画面の前で踊り出しそうになってしまっていたことを思い出します。

 

そして、人は手足を力いっぱい広げて大きく動いている人を見ると、自然と力が湧きでるものなのだということを、改めて感じました。幼少のころ、力尽きるまで走り回ることを心の底から楽しいと思っていた感覚を取り戻した気分です。

 

コミカルでおげれつな動きも、シンプルに面白い。例えば教室でのジョバンニいじめのシーン、おしりをふりふりジョバンニに迫っていくいじめっ子たちの動きがおかしくて、それを何も恥じらうことなく全力でやる演者たちの姿が気持ちよくて、シリアスな場面なのに気が付けば笑っていました。銀河鉄道の途中で出会う、下手くそな白鳥ダンスにストンプも、ただただ頭を使うことなく感覚的に面白い。

 

そして、腹の底から出ているデカい声。デカい声って、なんであんなに面白いんでしょう?デカい声を出している人を見るのも、気持ちがいいし。特に教室でのカトウ(小島くん)のバカデカ「あー!!!!先生が来たぞー!!!!」は最高でしたね。

 

そして何と言っても「銀河ステーション」の最高さといったら!あれが嫌いな人間っているのでしょうか。心の中で、「マツケンサンバⅡ」のMVを見ているときと同じところが疼くのを感じました。

 

そうした、幼少期の頃持っていた純粋な身体の喜び、身体を目一杯使うことのたのしみ、面白いもの面白いと思う素直な感覚、のようなものを取り戻すような舞台でした。自然とジョバンニやカムパネルラと同じくらいの年齢になって舞台の世界に入り込み、銀河鉄道のダンスに胸躍らせ、銀河での旅で出会った人々に心動かされ、「本当の幸せ」を求める意味とは何か考え、そしてやがて訪れる別れに心を痛めている自分がいた。心洗われるような鑑賞体験でした。

 

願わくば、この作品を未就学の子供たちに鑑賞してもらって、感想が聞いてみたいものです。おそらく、細部は理解できなくとも、同じようなところで胸躍らせ、笑い、泣くのではないかと思います。

 

ところで、今たまたま手元にある本『世界演劇史』の著者であるカール・マンツィウス(1930)は、古代の芸術について、音楽と舞踊と演技と詩はもともとはひとつのものとして一緒に現れており、今のように個別には存在していなかったと主張しています。また、原始民族(原文ママ)の芸術文化をさかのぼると、そうした芸術の中でも、舞踊が最も最初に生まれ出たのではないか、ということです。

「原始民族の藝術的現象を調査してみると、(中略)ある感情を誰にも解る表現に發達させて、遂に藝術の一種を形造ったものは、舞踊が最初であったやうに思われる。舞踊の起源は、實に、我々の精神上の喜悦感情を反映した肉體の無意識的運動に他ならない。心が憂鬱に沈めば、軀は潑溂さを缺き、筋肉は弛緩し、四肢は萎縮するが、潑一度、精神に歡喜と興奮の衝動を與へると、忽ち肉體は輕快を覺え、筋肉は緊張し、四肢は活潑に動き始める。全く本能的にである。幸福な子供の跳ね廻る有様は、實に舞踊藝術の自發的起源を示すものである。

 ―『復刻版 世界演劇史 第一巻』

 

人間の持つ豊かな感情を、跳ね回る子供のように、身体で表現すること。人間が「芸術」という概念を覚える前の、誰もが持っていた原始的な衝動。そんなものを、全身を使って踊り、演じ、歌っていた役者の身体から感じた舞台でした。

 

「そうだ、シンプルな舞台を作ろう。演劇の最初の、原始的な面白さを伝えられるような、シンプルな舞台。そうして、今回の舞台を作る仲間、劇団タンクトップスが生まれたわけです。」

 ―『銀河鉄道の夜』(舞台)、正門さんの語り

 

また、そうした「面白い」演出の数々が、FunnyではなくInterestingのほうで心の底から面白いと思えたのは、やはり演者の方々が本気で、大真面目に、全身全霊を込めて取り組んでいらっしゃったからでしょう。

「今回パフォーマンスは面白いものがたくさんあるんだけど、本気じゃないとつまらないですよ。演劇になってコントになってしまうから。」

 ―菜月チョビ

菜月さんの指導の数々は、視聴者ながら感じ入ってしまうものばかり。その中でも、特にグッときた指導です。身一つでやる舞台だからこそ、その身体を最大限に使って演じないと、途端に世界観が崩れてしまう。身体ごと物語に没入し、本気で演じるからこそ、演劇作品としてちゃんと面白いものが出来上がるということでしょうか。画面越しに演者の皆様の本気が伝わってくるような舞台は、心の底から面白かったです。

 

現実と物語の世界の境界

舞台は、1人舞台裏に腰掛ける、正門さんの「語り」から始まります。

まだ何の役にも入っていない、そのままの正門さんが、視聴者に直接的に語り掛ける。それも、「コロナ禍における演劇界の苦悩」という、非常に現実的な話を。

語りを続ける正門さんは、舞台上へと移動し、そこで他のメンバーも合流。幕が開き、音楽が流れ、彼らの来ていたジャージは剝ぎ取られ、そのまま舞台が始まります。

「番組」を見ているかと思いきやいつの間にか舞台が始まっており、Aぇ! groupはじめ8人を見ていると思ったらいつの間にか「劇団タンクトップス」が目の前に現れていたのです。

また、物語の終わりには、劇団タンクトップスは再びジャージを羽織り、Aぇ! group、長瀬絹也、前川ゆうとして舞台から降り、舞台裏へと向かいます。

現実からフィクション、フィクションから現実への流れるような変化。

まるでいつの間にか物語の世界に迷い込み、そして徐々に夢から覚めていくような感覚を覚えたのでした。そこにあったはずの境界線が徐々に融解していくような感じです。

 

それはちょうど、原作『銀河鉄道の夜』の物語の最後、カムパネルラが落ちた川に夜空の銀河が映ることで、夢のなかでのジョバンニとカムパネルラの銀河鉄道での冒険と、現実の世界でのカムパネルラの死後の世界への旅立ちとがゆっくりとリンクしたような、あのときの読後感に似ている感じがしました。

下流の方は川はば一ぱい銀河が巨おおきく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。

銀河鉄道の夜』「九、ジョバンニの切符」

 

現実とフィクションの境界が緩やかに融解していく感覚は、演者たちの身体にも起こっているように感じました。

正門さんがしゃべっていると思いきや、いつの間にかそれはジョバンニになっており、そしてまたいつの間にか正門さんに戻っていく。派手な舞台メイクや衣装といったものを纏っていない正門さんの身体が、そのままジョバンニの身体とリンクしていくみたいな。

 

菜月さんは、配役を決めるに当たって、多少なりともAぇそれぞれのイメージや人柄を考慮したといいます。正門さんにいたっては、「見るからに」ジョバンニっぽいからあの配役だったとのこと。確かに、ファンの立場から見ても正門さんはとても「ジョバンニっぽい」印象です。

 

物語の主人公であるジョバンニは、友人のいない孤独な少年です。

家族の食費を稼ぐために、放課後は毎日アルバイト。病気がちの母親の看護もしなければなりません。今でいうヤングケアラー。父親は遠方に漁に出かけており、しばらく帰ってきていません。「ジョバンニの父親は密猟をしているのではないか」という噂から、クラスメートたちにはイジメを受けています。唯一の友人だったカムパネルラも、最近はクラスメイトのほうと仲良くやっていて、疎遠になってしまう。孤独を抱えた、心優しい家族思いの少年です。

劇団鹿殺し版の脚本のジョバンニは、孤独で根暗なだけでなく、父親の悪口を言うクラスメイトに果敢に立ち向かう勇敢さや、唯一の友人カムパネルラがクラスメイトや鉄道内で出会った女の子と仲良くするのに嫉妬する幼稚さなど、ジョバンニの持つ人間臭い部分にさらに肉付けがされており、より親近感を感じました。


そんな人間味のあるジョバンニと、正門さんの持つ存在感がマッチしており、なんというか配役に説得力を感じました。


霞を食って生きているような浮世離れした人も多いジャニーズにおいて異彩を放つ、正門さんの存在感というか、存在の質量というか、生の温度感というか、生々しさというか。それが、銀河鉄道において第四次の切符を持ち、ひとりだけ現実の世界との繋がりを持っていたジョバンニと不思議とリンクしてきませんか。

 

稽古シーンと本番シーンを交互に見せる番組の構造も相まって、正門さんとジョバンニの間の境界が曖昧になっていくような感覚を毎週覚えていたな〜と振り返ります。こういうの、ハマり役っていうんですかね。

 

 

殻を破る

番組の性質上、一か月足らず(実際に稽古ができる日数はどうやら1~2週間程度らしいのですが)で作品を仕上げなくてはならないらしく、今作品の稽古は特に詰め込んで行われたことが明かされていました。

(この制作形態に関しては賛否あるし、私も番組自体の抱えるジレンマだとは思っています。演劇に忠実であろうとするほど、ひと月という制約とAぇの多忙さゆえに、準備期間が十分に取れず、どこかで「妥協」をしなければならないというテレビ的な制約がネックになること。また、演劇に関しては素人の演者たちを指導し10日そこらで形にしなければならないというハードさもあり、劇団側に得があまりないのでは…とも。)

 

しかし、色々制約のある中で、Aぇ! groupのみなさんが、1週間足らずで100時間以上の過酷な詰込み稽古を乗り越え、高度な菜月さんの意図に果敢に食らいつく裏側の姿は、激しく胸打たれるものがありました。やっぱりなんだかんだで、苦労しながら何かを乗り越える人の姿というのは、胸を打ってしまうもの。

 

その中でも、とくに成長に胸打たれたのが、リチャードさんの演技です。

 

ところがジョバンニの病弱な母を演じる場面では、何度も菜月からのダメ出しを食らうことに。全身を使ったパフォーマンスで病弱さを演じるように求められるが、どうしでも“キレイに踊るダンサー”としての表現が前に出てしまい、菜月の要求する“観客の心に刺さるパフォーマンス”に応えきれない。「存在感として負けちゃう」と繰り返す菜月に、本番でリチャードはどう応えたのか?

THE GREATEST SHOW-NEN|朝日放送テレビ 2021年6月26日(土)放送

きれいに踊るダンサーとしての表現はできるけれど、今一つ殻を破ることができない。

 

これは、リチャードさんが以前から自身でも語っていた課題になります。

「ダンスも歌も演技も「リチャって一定の安定感がある」って言ってもらえるんですけど、「めっちゃスゴイな!」って人の想像を超えるレベルで安定するくらいになりたい。」

 ―『STAGE navi』Vol.44

稽古シーンでは、「もっと殻を破ってほしい」と、何度も何度も菜月さんから修正されながら、うまくその意図に応えることができずに模索するリチャードさんの姿が映っていました。

 

「もっとでしゃばってほしい」「存在感として負けちゃう」―そんな言葉でダメ出しを食らうリチャードさんを見ながら、果たして彼はこの業界でこんな言葉をかけられたことがあるのだろうかと考えていました。

「目印担当」「どこにいても目立つ」「オーラがある」「何をやってもサマになる」……そんな言葉の数々で表されてきたリチャードさんの「存在感」。おそらく本人の意図しないところでもそれがひとり歩きしてしまうような、それが「ズルい」とすら言われてしまうような環境です。本人のパーソナリティはその「存在感」とは対象的に、慎重で慎ましやかな気がするのですが。

そんな中、純粋にリチャードさんの芝居だけを見て言われた「もっとでしゃばってほしい」「存在感として負けちゃう」という言葉に、ファンながらに不意を突かれたような、心臓を鷲掴まれたような感覚でした。

 

そして本番。コミカルなようで、それでいてどこか不気味なジョバンニの母がそこにいました。リチャードさんの充分にでしゃばっている身体の動きが、コントロールや予測が不可能なものに対する恐ろしさのようなものを覚えさせ、私たちと異なる言語で話すものを見るような対話の不可能性すらも感じさせました。そうした違和感ありありの母親を演じることで、それがジョバンニの孤独をより強調しているような感じでした。

この作品の根底に流れるテーマである「身体」を、一番生々しく感じることができたのではと思います。

 

この成長には菜月さんも

「稽古途中からなりふり構わずになってきたときの人間臭い魅力が素敵だと思いました。」

 ― STAGE SQUARE Vol.52

と語り、8月7日放送の「神演技アワード」では見事リチャードくんを選出。

 

普段温厚なリチャードさんがいじめっ子のガキ大将・ザネリを演じる様、上手なダンスを超えた、人の心をわしづかみにするような存在感を発揮したジョバンニの母、そしてザネリと対照的な役割を見事に演じきった青年役と、この作品におけるリチャードさんの演技はどれも必見です。

 

 

 

 

 

本当に、本当に惜しむらくは、この素晴らしい作品を見てもらおうにもどこにも術がないことでして…

 

番組の再配信、円盤化を切に切に希望いたします。

 

 

参考文献

『STAGE SQUARE』Vol.52、p85、日之出出版

『STAGE navi』Vol.44、p84、産経新聞出版

カール・マンツィウス(著)、飯塚友一郎(訳)、(2000)「第一章 演劇の萌芽」『世界演劇史 第一巻』、p8、本の友社。

兵藤裕己(2004)「まえがき―劇的なるもの、メディアとしての身体」『岩波講座 文学5 演劇とパフォーマンス』、岩波書店

 

宮沢賢治(1934)「銀河鉄道の夜」、青空文庫、2010年11月1日、URL:

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html

、2021年9月17日閲覧。