差別について考える

 

 

 

 

こんにちは。

ねみです。

ドのつく新規のAぇ担です。

沼落ちして3か月くらいでしょうか。


つい数カ月前までは関西ジャニーズジュニア全体でリチャードくんしか存じ上げなかったくらいです。Aぇ! groupの存在も知りませんでした。西畑くんってよく見るけど高校生くらいかしら、MCとか頑張っていて偉いなあ、と思ったらまさかの同い年でびっくりたまげました。そこらへんのグループへの沼落ちの経緯やグループの好きなところは、改めて別の記事にしたいなあと考えています。

 

生まれたてのオタクではありますが、自己紹介もそこそこに、結構長めの記事を投稿しようと思います。ここ数週間は普段政治についてあまり発言をしないような界隈の人たちからもよく聞く話題となっていますが、「人種差別」と「差別の再生産」についてです。オタク関連の記事を書こうかなと作った本ブログでこのことについて書こうと思ったのは、それらと私の応援するグループ(さらにいうと私の自担)をからめた議論がいくつか散見されたからです。リアルタイムでの社会の動きとそれに伴う応援するグループのファンダム内での議論に、自分が日頃考えていることがリンクした結果、このタイミングと思いが熱いうちに記事にしなければならないと思いました。

 

自分の気持ちを整理する目的で書いたものなので、無駄に長いですが、読んでくださる方がいれば幸いです。

 

 

 注・このブログに書いてあることは100%私の思想、個人的見解であり、特定のグループやファンダム、個人の思想や方針とは一切関係のないものであるということをご承知おきください。 

 

 

 

  • 自担のはなし


自他ともに認める「関ジュの目印担当」の方担当です。おそらくAぇを知らないひとでも、ジュニアに詳しくないひとでも、まず1番はじめに認識するのが彼ではないでしょうか。私もそのひとりで、「ジャニーズジュニアにひとりアメリカンな子がいるよね」という認識でした。で、いちど釘付けになった目を離すことができないままこの3ヶ月くらいを過ごしています。久しぶりに自担のいる生活というものを経験していますが、毎日がきらめいているやら苦しいやらでとても楽しいです。(#Aぇのオハコ、#AぇTV、ありがとう!)

定評のあるパフォーマンスやお笑いももちろんなのですが、彼の好きなところのひとつに「我が道を極めるところ」があります。よく「自己プロデュース能力が高い」と褒められているのを見るんですけど、本当にそうで。その評価は、みんながタレントとして成功しようと手を変え品を変えやり方を模索する中、「自分に必要なものはこれ」と見極める洞察力と冷静さ、それに向かってコツコツと努力を積み上げる実直さと忍耐強さの表れなのだと感じています。その結果手にしたダンスとお笑い、そして「目印担当」という武器に対しては、努力に裏打ちされた自信も垣間見えて。その自信ありげなオーラもかっこよくて好きなんですよ。

 

そのひときわ目立つ「見た目」に関しても、とても自己プロデュースが上手な方だなあと思っています。ストリート系の服、派手な髪色、前代未聞の髭ジュニアという肩書も、既存のジャニーズ的美にとらわれずに自分がいちばん似合うスタイルを極める芯の強さがあればこそ。めちゃめちゃかっこいいです。


まあ、あとはシンプルに顔が大好きです。

いろいろと御託を並べましたが、ジャニーズに惚れることの本質はこれにあるのかもしれません。

 

 

  • ネタいじりについて

ただファンになって界隈を覗けば、見たくないものも当然見えてくるわけで。
彼がインターネット上で、外見をネタにするような不快なやり方でネタ消費されていると知ってしまいました。いわゆるクソコラというやつ。ちょっと検索すればすぐにヒットするので、それをネタ化している側としては非常にカジュアルなインターネットミームとして使っているのだろうなという印象です。


人の気持ちはどうやったって代弁できませんので、こういった消費が「彼にとって」どうであるかというのは、本人から明確な意思を示されない限り何とも言えないなあと考えています。おそらく彼は何か思うところがあっても言わないひとだとは思いますが。いちファンとしては、私から見ればめちゃめちゃかっこよくて痺れるくらい素敵な自担がクソおもんない一般人にネタにされてて、しかもそれが滑ってると思ったら腸煮えくり返るくらい悔しいです。

彼自身には容姿をひとつの武器に注目を集め、爪痕を残していったという自負もあるといいます。しかし、彼が彼自身の容姿をどのように扱いどのように利用するのかということと、彼の容姿がどのように消費されているかという問題は全く別物として論じられるべきです。

 

 

ただ芸能人の肖像のネタ的な消費って、その行為の是非はともかくとして(個人的にはマジクソだと思っていますが)、容姿に注目が行く職業性質上避けられないことなのかなとは思います。どのようなハンサムにも美女にも容姿をあげつらうようなくだらない連中は湧いてくるわけで。人類70億人もいればユーモアのセンスが幼稚で最低なカスもいるので、粛々と通報&ブロックで対応するしかないよなとは思っています。(アイドルという職業とビジュアル・イメージの消費の是非 のような問題は、まだまだ自分のなかの課題として考え続けていかなければなあと思っています。)

私は誰よりかっこよくて魅力的なタレントを応援できていることに対して誇りを感じているし、くだらないネタが霞むくらい大きな声で愛を叫びてえな…(ポエム)というのが、「自担がネタ的に消費されていること」に対するいちファンとしての感想です。

 

 

そして以下は、ルーツや国籍などを異にするひとが「特徴的である」という理由でネタ化され、それが一種のユーモアとして受け入れられていることに対する、一個人としての表明です。私はそれに断固として反対します。ここからが本編です。

 

  • ネタいじり →「差別の再生産」

私はルーツや国籍、もっといえば身体的性別やセクシュアリティ、容姿、病気、様々な特徴をもった人々を「特徴的である」という理由でネタ化する行為については差別的であり、またそれを面白がったりネタにしたりすることは差別の再生産であると感じます。

私は差別構造を反映した表現(表象)は差別の温存や強化、新たな形の差別の生産につながる、という問題意識を持っています。このような意識から、ネタを単なるナンセンスなジョークのひとつとして片づけてしまうのではなく、日本社会における差別意識が反映された形態のひとつとして真剣に考えなければならないと感じました。

 

 

 

 

メディア表現と差別問題に関する議論として2年ほど前にネット上で活発に議論された問題として、「ブラックフェイス」の問題があります。

 

  • 「ブラックフェイス」の問題とは

www.huffingtonpost.jp

 

2017年の年末に放送された「笑ってはいけない~」で、ダウンタウンの浜田がアメリカンポリスのコスプレをする際に顔を黒く塗って登場し、物議をかもしました。放送されるや否やこれが「人種差別的である」と炎上。数日後にはイギリスのBBCアメリカのNYタイムズといった大手メディアで報じられ、日本における人種差別への配慮の無さが問題として取り上げられました。欧米では非・アフリカ系のひとが顔を黒く塗り彼らのモノマネをする行為は「ブラックフェイス」と呼ばれ、きわめて侮辱的かつ差別的な風習としてタブー視されています。それはかつて、社会的に優位な立場である白人が社会的に劣位に置かれている黒人を侮蔑し、嘲笑するお笑いのネタとして「ブラックフェイス」がとてもポピュラーだったという歴史があるからです。民主化が進み、法により人種差別が禁止された後も、肌の色による差別は、日常生活で浴びせられる心無い一言や態度として、目に見えない社会における暗黙の不平等として、またときにははっきりとした暴力の形で現れ続けてます。それこそ、肌の色が理由で警官から不当な暴力を受け、命を奪われてしまったり。被差別側の立場にとって人種差別とは決して過去の歴史などではなく、現在も逃げることのできない日常なのです。#Blacklivesmatter (黒人の命も大切である)のハッシュタグはこの数年間絶えることなく、そしてこの数週間はとりわけ世界中でつぶやかれています。日本のバラエティ番組のお笑い表現がこれだけショッキングなニュースとして海外メディアで取り上げられたのも、人種差別の悲惨な歴史と、それがいまだに「過去」のことになっていないという現実が背景にあると感じます。

 

  • 「差別が存在しない」は本当か

いっぽうで、上記の浜田の一件について、こんな擁護の声もありました。「アメリカでは人種差別が深刻な問題かも知れないけれど、日本では黒人に対する差別の歴史がない」「そのため、顔の黒塗りも日本では差別に当たらない」「差別を意図してやった行為ではない。そのため、差別には当たらない」(日本テレビ側が抗議を受けて出した声明はこれでした)「なんでもかんでも差別だといわれてしまう、窮屈な世の中になった」(浜田の相方である松本は特にこういう態度ですよね)

などなど...

 

まず、「日本では黒人に対する差別の歴史がない」これは本当にそうなのでしょうか。法務省統計によると、2019年6月時点で在留外国人数は282万9,416人となっています(参照:

法務省:令和元年6月末現在における在留外国人数について(速報値)

)。この中で何割の人がいわゆる「黒人」として扱われるのか分かりません。しかし、帰化した人、両親などにルーツを持つ人含め日本国内で「黒人」として扱われるひとの数でいうと、結構な数になるのではないでしょうか。日々の生活の中で、肌の色は違えど「外国人だから」という理由で差別を受けている人を一度は目にしたことがあるはずです。自分の半径数メートルで「差別」と感じられる事例がなくても、社会に住む一人一人の生活の中にある逃れられない差別や偏見について想像をめぐらせれば、「日本には黒人差別がない」と簡単に言い切ってしまうことがどれだけ無責任な発言か考えることができるのではないでしょうか。

 

news.yahoo.co.jp

 

  • 「差別」と「再生産」

では「顔の黒塗りは日本において差別として行われていた歴史はない、よってこれは差別ではない」「差別を意図してやった行為ではない。そのため、差別には当たらない」という主張はどうなのでしょう。
「ブラックフェイス」が実際に日本において明確な差別意識をもって行われたという事実があるかどうか、などは調べようがありません。ある日ある場所でそのようなことが起きたことがあるかもしれないし、ないかもしれない。ましてやテレビ局がどのような思いで放送したかなど、知る由もない。私が現在学んでいる表象研究では、「差別する意図があったかどうか」という発信側の問題ではなく、「その表現は受け取る側(視聴者)の目にどのように映るか」「それを受け取る側がどう考えたか」が大切であると考えます。黒塗りがたとえ日本において差別として行われた事実がなくても、「差別を意図してやった行為ではない」とテレビ局が言い訳しようとも、2017年の大みそかに、多くの人が見るような大人気番組の冒頭部分で、影響力絶大な人気タレントが「黒人のキャラクター」を物まねするために肌を黒く塗って登場したことだけは紛れもない事実としてそこに存在します。その事実を単体で見ても、多様で深みのある個人を肌の色だけに単純化・記号化して表示する侮蔑的な行為と言えるのではではないでしょうか。少なくとも、「黒人差別」について世界史的な知識があり、その差別意識は「ブラックフェイス」のようなネタで強化され浸透していった、ということを知っていれば、その表現は「差別的である」と受け止められると思います。実際に放送を見て「人種差別的である」と感じ抗議した人がいて、この問題は「問題」として多くの人の目に触れることになりました。

 

そしてその「肌を黒く塗って黒人キャラクターの物まねをする」という行為に対して笑いが生じたことも、それが電波に乗って全国の茶の間に届けられたことも事実です。果たしてそれは、視聴者、とくにメディアの表現を真に受けてしまう子供たちにどのような影響を及ぼすのでしょうか。私たちの多くは、人気のテレビ番組が子供社会においてどれだけ影響力を持っていたかを経験によって学んでいると思います。無邪気で無知な子供たちは、大人の生み出した差別的な表現を残酷にもそのままコピーします。単なるネタとして人種差別的表現を垂れ流す大人の無知と怠慢によって苦しめられるのは、小さな学校の教室に座っている、外国にルーツをもつAくんだったりするのです。マジョリティがネタとしてカジュアルに行う差別は、マイノリティにとってときに凶器となります。テレビの中でコミカルにおこなわれているアフリカ系移民のテレビタレントのカタコトへのイジリが、現実の世界で暮らす移民の子供たちの教室内での平穏な生活を脅かすかもしれません。

 

また、上記のように、日本にも「黒人」と呼ばれているひとはいます。嫌が応にも「人と違うこと」を意識させられる同質性の高い日本社会を生きなければならない彼/彼女たちにとって、「肌を黒く塗って黒人キャラクターの物まねをする」という行為でタレントが笑いを集めている場面はどのように映るでしょうか。

 

  • 表現に対して敏感になること

芸能人のインターネット上での容姿いじりとどう関係があるんだよ、と思われるかもしれません。テレビ番組、それも多くの人が視聴しているような大みそかの特番の影響力と、SNS上で少数の人がネタにしているインターネットミームでは、比較にならないと思われるかもしれません。実際のところ、ネタにしている側のほとんどは、SNS上のちょっとしたジョークとして表現しているだけであり、そこに明確な「悪意」や「人種差別」の意図があるわけでないのだろうな、とは思います。推測に過ぎませんが。しかしながら考えるべきは、多様で複雑なはずの個人のあるひとつの特徴が恣意的にピックアップされ、その特徴によってひとつのカテゴリーに放り込まれて乱雑に認識されている、という点(Aさんではなく「ハーフの人」というような雑な理解)。そして、その特徴を強調・誇張する形でネタにされている事実と、それがネタとして面白おかしく消費されているという事実ではないかと思います。

たかがインターネット上の小さなコミュニティ内のネタかもしれませんが、本質の所では、もっと深刻な差別の再生産につながるような表現の問題と共通しています。そのような問題をはらむネタをカジュアルに無神経に楽しんでしまう、その「軽さ」を、私たちはもっと深刻に考えなければならないでしょう。その根底には、表現の持つ力の軽視と、「差別」を自分たちの生活とは関係のないものとしてとらえている無責任さがあると考えます。まさかたかがネタが差別の延長線上にあるものであるなんて考えもしたことがない、といったところでしょうか。

 

例えば「ハーフ」(この表現も、最近では使わないほうが良いとされています。ここではあえて、差別的な表現の例として用います。)ネタを例にとってみます。なぜ「ハーフ」であることがイジリとして成立するのかというと、それは「ハーフ」という特徴が日本社会によって重視されているからです。なぜ社会において「ハーフ」か否かが重視されるかというと、そこには血統主義、人種主義的考え方の影響があるからです。つまり、「血統」や「人種」といった概念を持ち出して、ある特徴(外国にルーツを持つ)といった人をひとところにまとめ、そこに「ハーフ」という名札をつけることで、その他「普通の」日本人から切り離しているということです。そうやって分断された「普通の」日本人と「ハーフ」との間には、明確に権力格差が存在します。平等じゃありません。だから問題なのです。そしてそのような問題を孕んでいる「ハーフ」をことさらに強調するようなメディアの表現は、そのカテゴリーの持つ力をさらに強めます。

メディアでの表現は私たちの日常生活に非常に強い影響力を持ち、一人一人の意識に影響を及ぼします。テレビ番組は既存の規範を強化したり、新しい常識を創り出すメディアです。SNSは、自分の属するコミュニティーの「ノリ」というのが濃くなりがちで、それを一般常識であるかのように錯覚させる力があります。

これが、メディアでの表現が差別的であるかどうか敏感に判断されるべき理由であると思います。イジりは社会の差別意識を反映したものであり、そしてそれは差別構造の強化につながるものでもあるからです。単なるナンセンスなジョークのひとつとして片づけてしまうのではなく、差別とひとつなぎのものとして真剣に考えなければならないと感じています。

 

 

  • 「差別」は他人ごとではない

また、その「軽さ」には、自分たちの行為と差別を結び付けて考えないという、「差別」を自分たちの生活とは関係のないものとしてとらえている無責任さもあると思われます。その特権性を問題視したいのです。

 

 

 ルーツや肌の色、国籍だけではありません。性別や容姿など、生まれ持った性質をいじるネタというのは至る所にカジュアルに存在し、いちいち取り上げていたらきりがないと思われるほどです。そして、「差別」「排除」「暴力」はもちろんいけないことだし怖いことだからやめよう、ラブ&ピース!と訴えたその人が、差別的なネタには鈍感だったりむしろそれを楽しんでいたりというのはままあることです。

差別は太平洋を挟んだ遠い外国で起きている問題ではなくて、私たちの暮らす社会で確実に起きていることです。自分たちの住んでいる社会にも人種や国籍やルーツや居住地、性別やセクシュアリティや容姿等で差別されている人たちがいます。身近なところでは、移民差別や、在日コリアン・中国人の方への差別、被差別部落問題、セクシュアル・マイノリティ差別など。これらマイノリティに含まれる方々にとって差別問題は決して対岸の火事などではなく、この社会で生きていくには逃れられない日常です。差別について頭を痛めて考えたことがない、そうしなくても生きてこられたということ自体が、マジョリティゆえの特権です。そして、その社会を構成する一員である以上あなたも私もそれらの差別に無関係などでは決してなく、わたしたちの日々の政治的、文化的選択や指向、楽しんで観ているテレビ番組やSNSの使い方を通して、差別や差別の再生産に加担しているということです。大切なことは、世の中の人を「差別的な人」か「差別的でない人」に分断するのではなく、私たちは全員「差別すること」から逃れられないのだと自覚することだと思います

私は大学での学びなどを通して人種差別問題にはある程度敏感になりましたが、つい先日も自分の発言を顧みて「あれは学歴差別だったな」と気づき、落ち込むことがありました。 自分が差別に全く無関係だという思い上がった態度を辞め、自分の特権性に自覚的になること、常に自分の視点が正しいわけではないという視点を持つこと。そして常に学びの姿勢、多様な視点から物事を観ようとする柔軟な姿勢を失わないことが、差別と向き合っていく上で大切なことではないでしょうか。

 

 

  • 窮屈な世の中 生きやすい世の中

「何でもかんでも差別と言われてしまう、窮屈な世の中になった。」という論調があります。とくにダウンタウンの松本は一貫してこのようなスタンスをとっています。ネット上においても、「言葉狩り」という言葉がさぞ「本来は問題ではないような些末なことが、一部の声の大きい層のせいで問題化されてしまっている」とでもいいたげな使われ方をしています。本当にそうなのでしょうか。

人の容姿をあげつらったり、出身やルーツ、性別など生まれ持った属性への偏見をネタにしたりすることは、古くからとてもポピュラーなお笑いでした。太っている人、頭髪の薄い人、不細工な人、日本出身じゃない人、それ故に片言の人、肌の色の違う人...。「いまの時代は自由にお笑いもできない。窮屈な世界になった。昔はよかったのに」と感じているお笑い芸人の方も多いのではないかと思います。しかし、その「自由に差別ができた昔」が居心地よく感じられていたことこそ、その人がいかに特権的な立場でぬくぬくと過ごせていたかの証拠だと感じます。被差別側からしたら、昔は届かなかった差別への異議申し立てが、ようやくマジョリティに取り上げられるようになった、それだけでしょう。それは、一部の声の大きい層の策略などではなく、インターネットの発達によって、それまでは声が与えられていなかったマイノリティたちが発言の場を手にしたことが大きいと思います。SNSの発達によって、従来は声を上げることができなかったマイノリティたちの小さな声が、マジョリティの大きな声と同じプラットフォーム上に登場するようになりました。そこで、自分たちの特権性に自覚的になり、マイノリティの声に耳を傾け、社会を変えようとするマジョリティが増えていっている現状があります。一度「おかしい」と感じてしまったこと、感じてもいいんだと気づいてしまったことに対して、人はもう以前と同じようには接することができません。知識を得て、新たな価値観を学んだ人が、昔楽しんで観ていたお笑い芸人のネタがモヤモヤして見れなくなってしまった、という話を周囲でよく聞きます。以前見られた、トークバラエティなどでよくみられる人の属性や特性や差異を「イジる」笑いが、徐々に受け入れられない時代に変化しているということなのでしょう。令和の時代においては、誰かの特徴をけなしてとる笑いよりも、人を傷つけることのない安心感がありつつも、そこからあたらしく生み出される笑いが求められていると感じます。ぺこぱやミルクボーイが「人を傷つけない笑い」筆頭として言われ人気になったことからも、そのような時代の変化と需要が感じられます。番組の視聴者とスポンサーの顔色だけ窺っていればテレビ番組が作れた平成までの偉大とは違い、令和時代のテレビ番組で必要なのは、マジョリティマイノリティ関係なく多様な人が見ることを前提とした、より「ポリティカル・コレクト」な視点です。その視点を欠けば、炎上という名の異議申し立ては避けられないでしょう。

 

 

それに伴い、芸能人の意識にも変化が見られます。欧米のセレブリティがガンガン政治的な発言をするのに比べると、社会問題を提起することに消極的である印象の強かった日本の芸能人ですが、その風潮も変わってきています。デビュー当時は「太っていること」を自虐することも多かった渡辺直美が、ありのままの自分の魅力を肯定するボディ・ポジティブなスタイルを示すようになったこと、水原希子が自らのルーツについて明かし、国籍や性別への差別に関し積極的に問題提起をしていること、ぺこ・りゅうちぇる夫妻が従来の性別役割分業的な夫婦の在り方について異議を唱えていること、などなど...。ジャニーズ事務所でも、Sexy Zoneのマリウス葉くんはフェミニズム的視点から、社会のジェンダー観を変えていこうというエンパワメント的発言を積極的にしています。

www.harpersbazaar.com

www.huffingtonpost.jp

wezz-y.com

そういう人たちを積極的に支持していきたいし、そういう人たちが成功する世の中であってほしいと願います。逆に言えば、いつまでも古き良き時代にしがみつき、昭和・平成的な価値観に固執するようであれば、前時代的なテレビ番組・タレントとして、テレビ文化と共に忘れ去られていくだけでしょう。それはジャニーズタレントに関しても同じこと。その人気から多大なる影響力を持つジャニーズこそ、社会的・文化的責任もそれ相応のものを負っていると思います。ジャニーズのコンテンツが時代遅れのものとして葬り去られないためにも、事務所関係者並びにタレント一同にはコンプライアンス研修を設けてほしいものです。そしてジャニオタとして、社会のいち構成員として、応援している人たちであっても常に厳しい目線を向け、受け入れられない表現には積極的に拒否の意思を示すことで、差別意識の再生産を自分たちの手で断ち切りたいと思っています。

 

 

  • おしまいに

現在の日本社会は、今まで放置していた、社会の中のカジュアルな差別意識と無神経なネタ化の問題に向き合おうとしている途中であると感じます。問題意識を持っている人の数は徐々に増えてきてはいます。しかしそれに断固とした拒否の態度を示す人の数は少ない。浜田の事例が「賛否」両方をもって論じられたことは、それを表していると感じます。差別問題は太平洋を挟んだ遠い外国で起きている他人事ではなく、まさに私たちの問題であり、自分が生産と再生産に携わっている問題であるのです。そのことを念頭に置き、視野狭窄に陥らないように学び続けること、他人の視点を想像する努力を怠ってはならないと感じます。そして、とくに自分が何を表現するか、どのような表現を受け手として消費するか、ということについて、差別の当事者意識をもって考え続けなければならないと感じます。

もちろん、全てのひとに配慮をした表現ってできるわけがなくて。大切なことは「できるわけがない」から「不快ならば見るな」と切り捨てるのではなくって、「できるわけがない」かもしれないけれどより多くの人にとってのより良い表現を見つけるために修正と改善をし続けることではないかなと思います。

 

 

時代は変わり続けるし、いい方向に変え続けていかなければならない。

大切なのはその流れを止めないように取り組みを続けることでしょう。

 

youtu.be

 

 

 

 ※追記 (2020/6/11)

ありがたいほどにたくさん反応をいただき、たくさんの人のご意見を見るなかで、補足しておこうと思ったことを書き足します。

 

改めて強調したいのが、差別は0か100かで論じられるような単純な問題ではないということ。これは完全に差別でこれは完全に差別じゃない、と雑に判断することはできないと感じています。その判断する人でさえも、結局は何かのバイアスがかかっているのだから。そして、「人種」というひとつの指標だけではなく、表現にはジェンダーや病気や容姿や出身、様々な要素が絡み合います。ある視点から見れば平等に思える表現でも、視点を変えてみると差別であったりするのです。

 

じゃあ差別ってなんだよ、となると思うのですが、私が言いたかったことはまさに「差別ってなんだよ」と考え続けたいという話です。差別を見つければ安心、という話ではなく(おそらく「正解」とされることは日々変わるでしょうし)、頭を悩ませて苦しんでモヤモヤして、自分が今まで楽しんでいたコンテンツをもう以前のように楽しむことができなくなるかもしれないという痛みを乗り越え、じゃあよりよい表現のためにどうすればいいのか考える。それが、自らの特権性に向き合うこと、学び続けることなのかな、という理解でいます。

 

そしてもうひとつ。

当事者としての表現/部外者がする表現

影響力のあるメディアの表現/個人の表現

影響力のある芸能人の表現/一般人の表現

自分自身に関する表現/一般化した表現

 

以上はすべて分けて考えられるべきだし、そこには権力の問題が存在するということです。表現の自由の問題やアイデンティティ・ポリティクスの話題につながってくるところでもあります。本記事では部外者(つまり、マジョリティ側の人間)がマイノリティを扱う表現、影響力のあるメディアにおける表現というものに主に焦点を当てました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 追伸 思い出したように自担の話

私たちが社会の成員として差別の再生産に加担しないために必要だと思われることについてつらつらと書きました。ジャニーズ全く関係ないじゃん、というつっこみがあることは承知の上でございます。タイトル詐欺でした。

取ってつけたように、最後に応援しているグループの話に収束させようと思います。

自担はこれまで、「見た目が外国人」なのに中身は生粋の日本人というキャラを前面に押し出してお笑いポジションを獲得してきました。

これに関しては、私は相反する思いを抱えています。

ひとつは、容姿をひとつの武器と定め、険しい芸能界をここまで生き残ってきたその姿勢に対する感動と称賛です。人と違うということに対して自信を持ち、それを武器にオリジナリティある戦い方をする彼の姿勢を、純粋にかっこいいなあと思うのです。

一方で、見た目に関するネタというのは、ステレオタイプ的な価値観や偏見を助長し再生産してしまう恐れがある、きわめてリスキーなお笑いだと感じています。そして、時代遅れだとも感じています。それは、このブログ記事を通して論じてきたことからも分かるように。やはり応援しているグループはかわいいし、うっかりしてしまった表現が炎上する、といった風にはなってほしくないです。なにはともあれ、ジャニーズ事務所のタレントという人気も影響力もある存在である以上、自分たちの表現が及ぼす影響の大きさに常に自覚的であってほしいなあと切に願っています。

欲を言えば、そういった多様性に敏感でポリティカル・コレクトな、なのにめちゃめちゃ面白いお笑いを提供できるグループを応援したい。

そして私は、Aぇ! groupには確実にそれができると思っているのです。ファンの贔屓目かもしれませんが。

それを感じたのは、グループの二年目の課題として挙げられた「リチャードくんをいじれるようになる」という目標と、その後のメンバーの関係性の変化でした。彼がキャラとして持っている「見た目が外国人」というイジリを安易にせず、あたらしい形のイジリを模索する姿勢。先日の#AぇTVで佐野君福本君が必死になって見つけだした「嘘つきイジリ」は、彼らの努力の段階を感じることができるようでほっこりしました。(リチャくんには「馬鹿の一つ覚え」ってばっさりいかれててかわいそうで笑ったけど)

あとは、同じく#AぇTVの中であった「もし恋愛をすることができたら、恋人に求める条件は」という質問。(おそらく、福本君が小島王の時に作成した問題じゃなかったでしょうか。)こうした細かい表現でも、「彼女にするには」ではなくて「もし付き合うことができたら」「恋人」という言葉選びをするのだなあと、とても感動したのです。本人が意図したことかどうかは分かりませんが。

 

こんな風にちょっとずつちょっとずつ、彼らが武器にしている「関西の色」を維持しつつも、国籍やルーツ、ジェンダーセクシュアリティや容姿等、様々な方面に配慮したポリティカルにコレクトな笑いの作り方について模索しているのかなっていう気がします。勝手な想像だけど。

Aぇ! groupはメンバー全員が、全員がまじめで優しく、他人の境遇への想像力と思いやりを持つ人たちだと思っていて。そして、世の中の流れを客観的に読めるの洞察力と賢さ、柔軟さとセンス、なにより、お笑いの手段をいっこ失っても自分たちで笑いを生み出せるクリエイティビティを持つ奇跡のグループだと思っています。

 

令和の時代を無双する、歌って踊れてバンドも組んでいてその上お笑いもできる、最強のアイドル集団になれると信じているし、なってほしいなと切に願っています。そんなポテンシャルを秘めた人たちを応援することができて、今日も幸せです。